文・写真:さとう としを

八幡宮のまつり
 秋になって九月にも、四月・六月に次いで祭礼が多い。各神社の祭礼は旧暦・中暦(月おくれ)・新暦の採用で混乱している。九月一日の中興神社(金井町)の祭礼も、八月一日に行われた八朔の行事が祭礼になったのかもしれない。この日、稲の初穂を田の神・氏神に供える行事がよくみられる。多分、実りの多いことを祈願する「作頼み」の行事も含んでいるのであろう。また、旧の八月十五日夜は仲秋の名月で、この夜に柿・栗・ナシや畑の成り物を供えるのは初収穫の儀礼である。西三川の小布勢神社の祭礼は九月九日であるが、名月には神社の磐座(御神体)に新米・甘酒を供える式があった。  佐和田町八幡の八幡宮の祭礼は九月十五日、むかしは旧八月十五日であった。仲秋の名月の日である。信仰の根元で、月の信仰と関係があるかもしれない。この八幡宮は康治元年(一一四二)に石清水八幡宮から勧請したと由緒書にあるが、石清水八幡の神領中に、「佐渡国野原別宮」とあるのが八幡の八幡宮であるとみられている。したがって八幡が神領であったことになる。佐渡に神領ができた例として、気比神社・日吉神社(山王)などが他にあるが、これらの中で石清水八幡宮の神領がもっとも早い。流人の順徳院・為兼・世阿弥などがよく八幡を訪れているのは八幡宮があったからである。石清水八幡は平安京の王城鎮護の神として、九州の宇佐地方から勧請したという。記録のなかに「八幡宮十二」とあるから、八幡宮と習合した神は原始神の十二神であるかもしれない。よそには有力寺院の鎮守として神を勧請する例がよくみられるから、その寺は国分寺かもしれない。  八幡の八幡宮では、かつて流鏑馬の神事があったといい、古い田植え唄も伝えられていた。中世、武士によって八幡神を武神として信仰される以前の信仰のすがたであろうか。 九月のまつり
 羽茂町飯岡の八幡宮は文明四年(一四七二)、羽茂殿によって勧請されたという。江戸時代までの記録には、度津神社の一宮と合祀されて、「一宮八幡」とある。延喜式書上げの一の宮の度津神社と八幡が習合した例である・このような神社の習合には、祭礼に双方の芸能を同時に行われることが多い。度津神社のむかしの祭礼は旧八月十五日で流鏑馬の神事があった。また霜月(十一月)の初卯の日に卯の日まつりがあったという。

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 九月十五日にまつりが行われている集落は八幡のほか、下久知・岩首(以上両津市)・徳和(赤泊村)などである。下久知は八幡宮、岩首は熊野神社、徳和は大椋神社である。下久知の八幡宮は八幡と同じく、石清水八幡宮より分霊し、久知郷の総鎮守となった。久知本間氏の外護をうけていたこともあって、流鏑馬の神事が奉納されたものだろう。賀茂郷の羽黒神社の流鏑馬(六月十五日)も、地頭渋谷氏によると考えられている。ともに八幡神が武神・軍神の性格をもつようになり、武士によって郷村の有力神社に奉納されるようになってからの例であり、後者は出羽の月山信仰に起源をもつ羽黒神社で継承されてきたものである。熊野神社の秋まつりは九月頃から十二月頃に行われる神社が多く、もとは自然神の十二神をまつる場合が多い。同じ自然神を神格化し仏教と習合したものに八幡宮(八幡大菩薩)があるが、徳和の大椋神社は早くに渡ってきた回船の船材を供給する職人たちの信仰していた八幡宮がもとになっている神社であるかもしれない。  大椋神社のまつり組は小熊・徳和浜・草木・清水・浅生・畝立・鍛冶屋・瓜生の八集落の組で行われ、各組は毎年交代で祭礼の元組をつとめ、神輿は当番の元組の御旅所まで渡御する。神輿以外の芸能は各組で奉納する。このように組あるいは家の地神まつりが、より広域な地域のまつりに編成されて行われているのが大椋神社の祭礼である。