文・写真:さとう としを
小木まつり
小木町木崎神社のまつりは八月二十八日の夜宮からはじまって三十日に終わる。江戸時代のはじめは旧九月二十九日であったが、寛文十二年(一六七二)より旧七月二十九日に改められた。まつり日の変更は、寄港してくる西回わり回船の都合によるものらしい。この時期は、二百十日の厄日の頃で、回船はその災難をさけて小木湊に寄港してきた。まつりが盛大になったのはこのためである。現在は一か月遅れになっている。八月下旬の祭日には二見半島の稲鯨まつり(二十五日・北野神社)もあり、夏最後のまつりとしてにぎわいだ祭礼になっている。夏まつりは古来より河原や海岸にでて、水辺で神輿洗いを行う神事が中心であって、農村では病害虫撲滅の虫送りの行事もそれに加わっていた。津軽、青森で行われているネブタ(ネプタ)なども同じ系統の祭礼である。
和船が日本海を回航する時代、節供や厄日に一時寄港する回船の船乗りも加わって、にぎやかに湊まつりが行われるようになった例は少なくない。そして、湊町の鎮守は多くの場合、海上安全の守護神を祀っているのである。
寛文十二年以前の小木まつりのようすはわからないが、もと城山に木崎神社が祀られていたというから、当初では神輿はなかったものと思う。祭礼を旧七月二十九日に改めたこの年に、神輿が京都より下付されている。そのとき猿田彦面なども付属品として下された。また現在もある慰々面は地元問屋衆が寄進した。この年から町内を行列して、御旅所までの神輿渡御が行われるようになったものだろう。当日、神輿渡御に先立って、猿田彦が先触れをしてまわるのは当初からのものと思う。やがて、風流の芸能として大獅子が佐渡へ導入されたとき、先頭で鼻切面をかぶって、大獅子をふるいたたせるロウソ(道祖神の転化か)などや、村はずれや三叉路などに猿田彦命や道祖神を祀る習俗が佐渡に広まるのも、このような神輿渡御の影響をうけたものであろう。
木崎神社の現在の神輿は、安永二年(一七七三)、大坂の米問屋殿村平右衛門ら三人が寄進したものである。大坂から船頭米屋清八の観音丸という船で積んできた。このとき、古い神輿は新保の八幡宮に譲った。この安永年間頃から、佐渡では自前資金で新造船をつくる時代に入った。この動きがあわられた背景には、少し前の宝暦期(一七五一〜六三)からはじまった佐渡産出物の輸出解禁がある。佐渡産出物のうち、米が積出品の中心であり、大坂・兵庫の米商人がこのころ競って北国米の買いつけにきていた。小木もまた米取引の回船が寄り、米価の情報が集まる湊であった。
この新しい神輿になった時期をさかいに、各町々からの出し物・芸能がにぎやかに参加するようになった。
二十九日午後の神輿渡御に先立って、拝殿前で、稲荷町の小獅子舞と栄町の大獅子が舞う。この行事は神輿渡御の露払いの意味がある。また神輿出発の直前には鬼の豆蒔きが行われる。豆蒔きは節分だけではなく、一升枡を持って収穫を予祝したり、感謝したりする芸能が祭礼に付随する例は、沢根・五十里まつりや相川まつりにもあるが、神輿の御幸に猿田彦命を登場させるのは、むかし日本統一にむかった大和政権の北方進出のすがたをとどめたもののように思う。
小木まつりに限らず、にぎやかに活気あふれるまつりは、氏子らが町内からくり出される屋台や山車によって盛りあがる。米作り中心の国中にくらべて、金山の町(相川)や湊町の祭礼が華やいだものになるのは、多様な職業によって成り立っている町方の活力が祭礼に込められるからである。
小木まつりの出し物で湊町らしいところは、入舟町の御船で、奉行船を形どっており、船中で「琵琶湖渡り」などの歌をうたうものであった。また賽銭船は塩飽屋といわれた金子長兵衛家の当主が先導することになっていた。神輿渡御とともに、その行列の方向に各町の八つの屋台がいっせいに出発した。