文・写真:さとう としを

神無月のまつり
 九月十五日の八幡まつりは秋のい稲刈り前の時期にあたったが、十月以降に行われるまつりは、田の神に感謝し、新穀でつくった神饌や神酒で神をもてなすことが秋まつりとなる。秋まつりは太陽暦の十月が中心になっているが、旧暦の十一月(新暦十二月)の霜月まつり、つまり卯の日まつりも、この秋まつりに含んでいいであろう。
いわば秋まつりは田の収穫祭である。月の異名で十月が神無月というのは神不在の月の意味でなく、この月は神の月で、神まつりのために物忌みをする月の意味であろう。佐渡では忌の日といって霜月の卯の日まで、穢れをさけて物忌みをする風習が小佐渡の方におそくまで残っていた。
 この時期になると、回船で稼ぎまわっていた水主衆も帰ってきて、打ちそろったところでまつりが行われた。小木三崎のまつりが十月に集中しているのはこのためである。

相川まつり
 相川は金銀山の開発によって江戸時代のはじめにできた町である。このゴールドラッシュで、諸国から人びとや物が短期間で集まると、文化も各方面から取り込まれた。それより以前、佐渡へ地頭が入ってくると、地頭の居城の近くに支配地の総鎮守として神社が祀られるようになった。それにたいして、相川のような金銀山の場合には、山の鎮守に大山祇神社が、町方の総社として善知鳥神社が創建された。神社の成立はそのやしろを建てた人びと(氏子)の出身地と関係がふかい。鉱山町のように生国を異にする寄り合いの町は、文化も複合したものになり、郷内を一つにまとめるために郷内の鎮守を必要とした。相川は江戸時代以前には海府といわれており、沢根から中山道を越えてきたところに下戸があって、そこに自然神の十二権現社(熊野神社)があり、また塩屋町の山手側に羽田村の塩釜神社があった。相川の北側は下相川といわれているが、ここは大間湊ができるまでは相川の湊であり、海上安全の神、住吉神社が先に勧請されていた。間もなく、相川は南の方にのびて、のち神社は相川府外の宮の腰に移った。善知鳥神社の本社建立を慶長五年(一六00)としているのは、慶長検地によって金山町(相川町)が誕生した機会に、相川の府外の南に移したことを意味するのであろう。
 中世に海府といわれてところに善知鳥郷があったとは考えられず、善知鳥七浦といわれた下戸・羽田・相川・小川・達者・北狄・戸地の総鎮守であったとするかつての史家の説は、本社建立後に、相川と関係のふかい近郊村をとり込んで、総鎮守とした経過の誤認によるものである。それは西三川が大目郷にあたり、足立氏によって渋手郷といわれた例とは違って、中世にはこの地域をとりまとめる者が相川にはいなかった。
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 善知鳥神社の最初の神輿の造営は元和元年(一六一五)といわれている。祭礼に神輿が郷内を渡御した例はいくつもあるが、古くからの例では新穂の日吉神社や羽黒神社(両津市羽吉)がある。時代はともかく、氏子の域内の連帯感と帰属意識を高めるために神輿の渡御があり、それに町や村々から芸能や祭屋台が参加してまつりをもり上げ、にぎやかな行事にした。
 江戸時代後期には現在ある行列の形ができ上がっていたことは祭礼絵巻物や記録類に書かれている。猿田彦(炭屋町)が先行し、神鉾(後藤座)が先頭にたち、露払いとして鬼太鼓や豆蒔が神輿の前をいく神輿行列の形はどこもかわりはない。また、町へくりだす芸能・祭台・燈籠は、それぞれの商売や職業によって異った。なかでも種々の人物・景物などを意匠をこらして造り、大提灯といった灯籠がねり歩いたのは銀山の町らしいはなやかなものであった。祭台や芸能は上方の影響をうけたものであろうが、この灯籠は秋田・津軽方面から入ったものだろうと思っている。北国から入ってきた当時の木材の量は相当なもので、その交流は想像以上であった。
 相川まつりが秋に行われたために、豆蒔の翁の手には柿を持って舞う。農村であれば収穫祭であるが、銀山の町は銀山大工のかね穿の所作ににせた銀山大盛りを願うものであった。
 十一月(霜月)に入って、一部にはまつりが行われているが、ほぼこの十月をもって終わって、霜月の初卯の日に、「卯の日まつり」という新穀を供えた収穫祭を行っているところがある。