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文・写真:さとう としを

地蔵まつり

梨ノ木地蔵
 地蔵は衆生を救う阿弥陀信仰と結びついた菩薩として、佐渡の庶民のなかに広く信仰されていた。
 まず、最初は、世の終末を予測する末法思想の流行とともに、地獄の責苦から亡者を救い出してくれる菩薩であった。次は、中世の日本海交易がさかんであった頃に、佐渡の多くの湊では、他国から入ってきた十王思想によって、冥界の死者の罪業を裁く十王のうちの閻魔王の本地(本来の仏)として地蔵菩薩が登場してくる。やがて十王にかわって、この地蔵が衆生を救済するものとして信仰されるようになる。説教節とともに佐渡へ入ってきたのも地蔵信仰で、安寿の母は地蔵の御利益により開眼するという筋書になっている。
 相川が金銀山によってわきたった頃に、当然、諸国から集まった人びとにより地蔵が信仰された。その頃は等身大の半肉彫の地蔵(石造)がつくられ信仰されていた。近世村落が形成されたとき、同時に、地蔵は道祖神や境の神と習合(結びつくこと)して、村境に道中安全の道祖神が祀られ、その場所を境の神つまり塞の神といわれた。そして同じ場所に地蔵が祀られることになった。地蔵は閻魔王の本地仏からはなれて、地蔵そのものを信仰するようになり、石造の小型な地蔵が各地の村境にみられるようになった。
 本来、地蔵は講中によって祀られてきたものであるが、江戸時代のはじめ頃から千体地蔵仏による個人の逆修(生前の供養)が流行し、それが、あとになると自分自身だけでなく、病弱な子供の救済神となっていく。石造の小さい身代わり地蔵が石工によって大量につくられるようになった。八月二十三日午後から二十四日にかけて地蔵まつりが各地で行われるようになった。地蔵信仰が佐渡に定着した時期である。
 佐渡では、とりわけ梨ノ木地蔵堂が有名である。かつて渋手村(真野町豊田)あるいは赤泊から殿様道といわれた梨ノ木越え道でいくと、道中のなかほどに地蔵堂がある。この道は小木道とともに、当時、佐渡でもっとも往来者が多かったところだ。梨ノ木堂の本尊は石造地蔵尊で、渋手漁師の網にかかって海中から引き上げられた仏だと伝えている。佐渡には海中出現の神仏は数多くあるが、街道にある信仰対称の神仏の一つとして、大漁満足・海上安全および子供の幸わせを願った庶民の祈りが地蔵に込められていた。
 梨ノ木地蔵堂では八月二十三日午後から二十四日午前にかけて、豊田の人びとはじめ近郷から集まって縁日が開かれる。むかしのとおりお籠りがあり、身代わり地蔵に願いをかける人が少なくないのも、信仰のふかさがうかがわれる。

味噌なめ地蔵
 地蔵は柔和な僧形をしていることから、子供を守る仏となり、子安地蔵・子育て地蔵・子守地蔵などがある。しかし、これだけにとどまらず、地蔵は現世利益の神として、多彩な展開をとげた。地蔵にさまざまな霊験を求め、特定の利益にこたえてくれる地蔵をつぎつぎに庶民はつくり出した。長寿の延命地蔵・安産の腹帯地蔵・眼疾の目洗い地蔵・いぼとり地蔵・とげぬき地蔵などである。目洗い地蔵は相川町達者の南端にもある。安寿伝説をとり入れて、安寿の母がこの清水の御利益により開眼したという筋書になっている。ここでも八月二十三日の午後、地蔵まつりが行われている。地蔵はごく身近な現世利益神であるだけに、切実な願望のある信者は、祈り願うだけでは心許ないと、祈願する事柄を直接に意思表示することもある。味噌なめ地蔵はこの例である。
 味噌なめ地蔵は赤泊村の草木集落の地蔵である。体のどこかに痛いところがあると、地蔵さんの味噌をぬるとよいといわれていて、いまも八月のまつりに信者が集まってくるが、もとは近隣の者が味噌がくさらないように、地蔵の体にぬりつけたものらしい。
 このような前代からの信仰は、少しずつ消えていくなかにあって、地域の人びとが支え続けているいくつかの行事のなかに、地域を一つにしている心のつながりがみられるのである。