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文・写真:さとう としを

夏まつり

 六月は水無月ともいう。季節は夏、陰暦では田地の水不足がはじまる時期である。
同時に、雑草が茂って害虫が蔓延しむさ苦しい期間である。夏まつりはこの六月に行われる。夏まつりの代表は祇園まつりである。祇園まつりは各地で行われているが、代表は京都八坂神社の祇園まつりである。祇園まつりのもとの形は、賀茂の河原で神輿洗いをする神事で、水辺の素朴な祓いの祭事であったといわれている。それが夏の疫病退散を願って、山鉾を立て、風流の練りもの(芸能)が加わって華美な祭例となった。夏まつりははなやかに行われるところに特徴がある。
 佐渡の夏まつりは、むかしから羽茂郡の草刈神社(八王寺権現)、雑太郡の長石神社(祇園)、加茂郡の牛尾神社(八王寺大明神)のまつりがあり、いずれも六、七月中旬に行われている。このまつりは近郷の村をまき込んだ大まつりになるか、市場も開かれて人寄りでにぎやかになるまつりとなった。草刈神社は南佐渡の大まつり、牛尾神社は夜宮には薪能と鬼太鼓が奉納され、当日は神輿渡御がある。別格式内社であったから加茂湖が湾入していたころは、神輿洗いの神事(祓いの祭事)があったかもしれない。また、長石神社はもと祇園さんといわれ、佐渡一円の牛市が開かれていた。
 京都のような都会では芸能的な性格のつよいまつりとなっているが、地方では稲作にともなう水神信仰と結びついたり、天王さんとよばれ作神とされている場合が多い。

羽黒神社祭札
 六月十五日に行われる両津市羽吉の羽黒神社の祭札は、伝統的な大祭であるが、諸般の事情から神輿渡御と流鏑馬は三年おきに行われることになっている。今年(平成十一年)はそれが行われる年であった。
 むかしから羽黒神社の流し雨という言い方があった。平成八年には朝六時ごろに雷が鳴り雨が降った。今年は雨は降らなかったが、この雨によって不浄なものを流すためだといわれた。
 山形県の出羽三山神社の花まつりの祭例日は七月十五日である。神輿を花で飾り御幸がある。東北の祇園まつりである。羽吉の羽黒神社もこの系統のまつりとして行われてきたものであると思われる。
 羽黒神社の現在の神輿は元文二年(一七三七)に建立した。その棟梁も塗師も、また本願の施主も相川の人である。相川に経済力があったからだと思われるが、まつりに町方的な雰囲気を感ずるのはこのためだろうか。江戸時代の後半になると相川や小木、夷・湊のような町方の商人がまつり行事にかかわるようになった。羽黒神社の神輿は北陸随一といわれたという。しかし、それ以前は月山御神輿と呼ばれ、白木の神輿だったらしい(『佐渡芸能史』下)。神輿を海へかつぎ入れ祓い行事があったかもしれない。むかし羽黒山の神が佐渡沖で船にひびが入って沈みそうになった。そのとき蚫が船のひびをおさえ沈船をふせぎ、羽吉の駒坂の夜長の浜に上陸したと言い伝えられている。ここの羽黒川の上流は五月雨山(月山)で羽黒神社の奥の院といわれている。羽黒山の神も寄り神の一つである。羽黒神社が佐渡へ入ってくる一つの拠点となっていたために、加茂郡の地頭となって入った渋谷氏の厚い信仰を集めたのである。

 まつり当日の十五日、一〇時に神社で神事式があり、一一時より大漁祈願の「漁づけ祈祷」を行う。午後は「人よせ太鼓」を鳴らし、参拝人が集まった三時ごろ神輿のおさがりとなる。「おさがり太鼓」を先頭に社人・神輿の綱を引く女衆をしたがえて長い石段をくだる。この神輿を担ぐ者は平沢の人が行っていた。羽黒の神の上陸伝説と魚貝漁師との関係からそうなったのであろうか。神に仕える人を意味する祝の姓がたくさんいるのも理解できる。
 神社から下山した神輿は、神橋で長百姓一九人衆と流鏑馬の射手らに迎えられ、一の鳥居まで下り、幟りの前で鬼太鼓の奉納があって、流鏑馬の行われる馬場に向かう。この流鏑馬神事は御旅所に対面した長百姓一九人衆の前で行われることから、加茂郡にいる草分け百姓らの主催する祭礼行事の一つとして行われたことを示すもので、加茂郡を支配していた渋谷氏と深いかかわりがうかがえる。郷内にいた有力名主の奉納した流鏑馬であることがわかる。
 瀬戸内方面に残っている歩射は、流鏑馬のように騎馬で弓を射るのにたいして徒歩の弓射の神事で、まつり以外に正月の神事としても行われている。いずれも、その年の吉凶を占う神事であることは共通しているし、武技としての流鏑馬は渋谷氏が入ってきてからの神事であろう。