left

文・写真:さとう としを

獅子舞い

まつりのやり方
 まつり行事にともなう芸能といえばまず鬼太鼓である。一口に鬼太鼓といっても、さまざまな舞い方・たたき方・だし物の相違がある。
 山王まつり(新穂まつり)は古くは御輿の唐崎渡御だけであったものが、後世にさまざまな芸能が加わったものであることは前回に述べた。
まつりを行う集団の規模は、家の地まつりから、一村あるいは数村におよぶものまで大小さまざまである。
天神・薬師・十王・地蔵・塞の神まつりなどには小まつりが多いのにたいして、熊野・白山・諏訪・神明(大神宮)などの神社のように生産や経済にかかわる村落共通の信仰には村まつりとして行われ、また数か村におよぶ広域(郷村)のまつりには、日吉神社(山王)・天王(祇園)・八幡神社などがある。
小まつりは派手さのない地味なまつりとなるが、反対に郷村のまつりは村や組がまつりの出し物を分担し、数日をかけた大まつりになった。
芸能(風流)が登場するのはこの大まつりである。もう一つのまつりの特徴は、正月行事・春の神事・夏まつり・秋の収穫祭・霜月まつりなどの一年の神事を、しだいに簡略化しながら一回または春秋にまとめるという過程をたどった。
出し物のなかに年占いに行われた流鏑馬(正月行事)や鎮魂・疫神退散・雨乞いなどにかかわる鬼太鼓が春まつりに行っていることもこの例である。

大獅子
 獅子舞いは山伏神楽や大神楽にみられるように、頭の下につく布にふたり以上の人間が入って舞うものと、腹に太鼓をつけ二頭の雄と一頭の雌による「獅子がくし」という曲に合わせて踊り狂うものがある。
佐渡には、この両方が入っており、前者は頭の大きい大獅子と小さい獅子がある。大獅子は雌雄の二頭が組になって、布の中に多人数が入って舞う。
この道ゆきには木遣りと伊勢音頭を唱いながら進むのである。
まつりに、この大獅子がでる地域は小木から相川、赤泊から相川、松ケ崎から相川の小木道・赤泊道・松ケ崎道の沿道における集落にみられる。これは、伊勢信仰で行った大神楽からきたものだろうと思っている。
想像の域をでないが、この西佐渡はむかしから伊勢講(神明講)のさかんな地域だっただろう。
この大神楽は伊勢御師に率いられ、信州あるいは飛騨・越中を経由して入ってきた。佐渡は三日市大夫次郎という御師のなわばりであった。
伊勢御師に金一両の御初穂を寄進すると大神楽が舞われ、焼印のある木札が渡された。大獅子の道ゆきに伊勢音頭が唱われたが、九月一五日、赤泊村徳和浜の大椋神社まつりでは、むかしのまま行われている。
大神楽の発生地は伊勢と尾張といわれ、天狗面をかぶった者が先頭にたち、長もちに御幣を立てて進んだ。
佐渡の神輿行列の先頭に長もちと御幣と大獅子が先頭をきるのは、この大神楽からきたものであろう。大獅子の進行に鼻切り面をかぶり、御幣をふって大獅子を勇みたてるようすがみられるのは、大神楽の変型であろう。後世になって、神輿渡御の行列に加わって、かつ鬼太鼓とともに火伏せの祈祷・悪魔はらいをして各戸をまわるようになった。
子供を大獅子に軽くかんでもらうと丈夫に育つといわれている。

小獅子舞い
 昭和五五年に、県教育委員会で『佐渡の小獅子舞』という調査報告書を発行した。
この本によると小獅子舞いは前浜と海府海岸に分布しているとあり、八地区の小獅子舞いを紹介している。
小木町稲荷町・赤泊村杉野浦・同赤泊新谷・両津市赤玉・同城腰・相川町南片辺・同北川内・同北田野浦である。
ほとんど海岸部であることから、島外からの来入であることは間違いなく、京都伏見稲荷神社(稲荷町)、紀州熊野本社(杉野浦)、京都祇園神社(赤泊新谷)、上方(赤玉・城腰)、加賀の白山神社(南片辺)など、来入の動機をはっきり伝承として残している。
海府では島内からの伝来を説いており、早くから回船文化の影響をうけた前浜の先進性がわかる。
こまかく検討すると、大半は白山神社系統で、ふるくは加賀・越前の神人(布教師)の手によるものであろう。
本来の神事とはかかわりなく、小獅子舞いがもち込まれたもので、まつりをにぎやかにするためのものであった。
赤泊新谷では、赤泊町の東・西・沖の口の三か所で舞い、悪霊が入って来ないように舞ったと伝えている。
この場所には正月のハリキリ(道きり)の祈祷札とアシナカゾウリが下げられている場所で、小獅子舞いは、悪霊退散の正月行事であったことがわかる。
赤泊の町では二月一日の春祈祷が終わると大獅子が門づけをしてまわる。獅子舞いはともに春の神事であった。