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文・写真:さとう としを

春まつり(四)

神輿渡御
 旧家の地神あるいは村の鎮守神のまつりは、その祭礼由緒や芸能などがともなわない素朴な「おこない」であった。立春の日や霜月(十一月)初卯の日のシロモチの行事などでみられるように、生活暦のなかにごく自然にとり入れられてきたものであった。
 佐渡の神社祭礼に神輿渡御や行列・芸能などが加わり、行われるようになったおもな契機には、中央の有力神社の神領になった時期、順徳上皇が流されてきたあと、鎌倉の御家人が入ってきて島内をそれぞれ領域化した時、そしてもう一つは日清戦争(明治二十七・八年)以降、国威発揚のため村落の団結がさけばれるようになった時期などにみられたが、その他、回船が活動した金銀山繁栄期や北前船時代などにもあった。小さな地神や名のまつりは生業の安定を祈るという素朴なものであったが、一つの地域が神社領となってまとまると、本領から祭礼行事が導入されて、そのミニチュア版が地方でも行われるようになる。その一例が新穂の山王(日吉神社)まつりである。
 新穂山王まつりは、中世以来しばらくとだえていたものが、一七世紀の後半になると、むかしのように復活した。そのきっかけになったのは天和二年(一六八二)の日吉神社禰宜の代官所への訴えであった。その訴状のなかに「…先年より毎年四月中の申に、山王へ七社の社人打寄り、天下安全の神事相つとめ申し候、しかれば井内村八王子の儀は三〇年余、神事の勤め中絶つかまつり、当日の唐崎まわり・あげ馬など、先例の儀式にそむき…」とあり、唐崎まわりの神輿渡御などが疎略になっていた。それで近江(滋賀県)の坂本本社に聞き合わせ、神輿の渡御は大宮(山王)、二ノ宮(北方)、聖眞子(舟代)、八王子(井内)、客人(大野)、十禅師(下村)、三ノ宮(大野)の順に唐崎まわりを行うようになって現在に至っている。そのころはまだ流鏑馬神事や鬼太鼓などの神事や芸能はともなっていない。近江にある日吉神社の祭例では現在も神輿が琵琶湖畔の唐崎に渡御するむかし通りのまつりが行われている。後年、まつりをもり上げるために神事や芸能を加えるようになったのが、佐渡のまつりの特徴である。

山王まつり
 今年は金北山の雪型が「種まき猿」になったのは四月上旬であった。例年は「中の申の日」(十二支の申の日の二番目)ころにこの雪型になる。どうみても猿の種まきのすがたにはみえないが、そのはずでこの猿は申のことである。み猿、きか猿、いわ猿が山王に縁のふかい動物とされたのはあとの話で、申を猿にあててわかりやすくしたのである。
 四月の山王まつりには、午前中、苗代の種まきをして、まつり見物にでかけた。多分、「種まき猿」の雪型と言いだしたのは山王氏子からであろう。

鬼太鼓
 華美な笛・太鼓のともなう風流(祭礼芸能)がなく、簡素で単発的なまつり行事に、風流といわれる鬼太鼓や獅子がでて、神輿の露はらいとして行列の先頭に立つようになったのは、おそらく、上方などから回船で芸能が伝えられるようになる十八世紀後半からであろう。このころ入った鬼太鼓の前身である鬼踊りは小佐渡の方に早く伝えられたものであろう。一説に永禄二年(一五五九)、宮中の左義長行事の隠太鼓にそのルーツがあるとするが、はたしてそうであるかどうか、次に述べたい。
 江戸時代のはじめ、相川金銀山の繁昌によって諸国から相川町総鎮守の善知鳥神社まつりに、さまざまな芸能も伝えられているが、このとき神輿渡御にさまざまな風流が加わっている。中心になる風流は祇園まつりの影響をうけたものだといわれているが、相川の鬼太鼓は御太鼓で、翁がでて疫除けの追儺の舞いを行う。佐渡では、立春を前にした節分の追難には舞われないで、祭礼行事のなかの風流のだし物として舞われた。鬼太鼓の起源には、享保年間(一七一六〜三五)、宝生流能楽太夫・本間右京清房が鬼舞いの振付けをして、牛尾神社(八王子牛頭天王)の祭礼に奉納したのがはじまりといわれている。これは申楽の系統をひいたものだろう。この神社の祭礼日は六月十三日であり、京都の祇園まつりに相当する佐渡の代表的夏まつりであった。夏まつりは疫除けの祭礼として行われていたから、鬼太鼓も、本来は祇園まつりのような夏まつりの芸能であろう。したがって、芸能の導入のきっかけも、その性格も、相川式の豆蒔き鬼太鼓とは異なっている。佐渡へ入ってきた初期の鬼太鼓は、四月九日に赤玉神社で奉納されるような、四至をかため、上下の動作が多い鬼舞いのようなものであったと思われる。
 神輿渡御の先導をした鬼太鼓が、氏子の各戸を門づけしてまわるようになったのは、ずっとあとになり明治に入ってからであろう。