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文・写真:さとう としを

春まつり(三)

自然神のまつり
 神まつりには家の地神として祀る場合と名や集団・組・村の鎮守として祀る場合がある。また複数の村々で行われる郷村のまつりもある。
 天神は本来、自然神であったのに、仏教の影響をうけて神仏習合がなされて、そこに寺ができ、のち著名な神社になった例に、九州の太宰府の天満宮がある。清水のわきでる天神の場所に安楽寺が建立され、太宰府へ流された菅原道真と習合して天満宮ができた。この道真の怨霊を鎮めるために京都に北野神社が創建された。天神は、水神として農耕の神であった。そして、道真の怨霊と自然神の雷神とが結びついて各地で雷神として祀られるようになったところも少なくない。佐渡では自然神としての天神はみられるが、雷神となった例はみられず、江戸時代の後半期からは学芸の神として祀られてきた。そのため天神は家の地神や寺社の境内社として特定の信者によって祀られることが多かった。
 神社と氏子のつながりは社人(神主以前の名称)あるいは鍵取りを介して、一定の期日に神まつりをし、神人共食の「おこない」をすることであった。社人の行うまつりは、ごく素朴で簡単なものであった。日本のような米づくりを中心にした農耕社会では、社人には土地開発の主役を果たした名主がなることが多かった。名田といわれた土地を耕しながら鎮守の神まつりを司祭するというおこないがまつりであった。

鎮守神とハリキリ
 米づくりの村は水・道・労働・生活にわたって共同体的つながりがつよい。近代的社会ではそれを封建的であると片づけようとするが、米づくりの村はそんなに簡単なしくみではない。生産から生活まで近隣の共同性・等質性が貫かれてきた。戦後の技術革新による経済成長は、農村を商品経済のなかにまきこんでしまったが、まだ、集落が共同体的な支えあいのなかで存在しているのは事実である。この共同体的特長を無視して、近代化・合理化・自律化を促進しようとしても、たんなるかけ声でしかない。
 神社を中心にして集落が安定しているところは、集落のなかの寺社・堂宇はきちんと守られ管理されている。まつりも過疎化による若者の流出に苦労しながらも続けている。
 春の農仕事に入る前、三月十二日に春神楽を神社で行っているところがある。相川町達者である。小木半島の外三崎の田野浦では七月一日に夏神楽が行われる。ともに白山神社であるから、米づくりにかかわるこのような予祝祈願は、加賀の白山からきた山伏が伝えたといってよいだろう。達者は北半分が熊野神社の氏子であったから、両社が合祀するまでは白山神社の神事であったことになる。この春神楽のあと、集落への旧道の三か所に注連縄で張り切りをする。春の農耕はじめの神まつりは、ごく素朴な神事と村の結束と平安を願う張り切りの行事からはじまっている。
 ここでは張り切りの場所は二つの神社の氏子全体をふくんでいるから二社合祀後からの行事ということになる。村落が団結をして国力増強をはかる時代からのものであろう。
 地神や持仏による守護を求める気持ちはふるくからあったが、ある一定地域を地縁的に鎮守するという精神がとくに高揚したのは、江戸時代の幕藩体制が行きづまって皇国史観がさけばれるようになってからである。明治維新により廃仏毀釈による神道国教政策が進められるようになると、村の鎮守のまつりをはなやかに行うことが流行した。地頭の居住地の守護神や大社で行われている神事の一部を導入したり、芸能を習いおぼえてまつりの出し物にすることがはやった。それぞれの集落では中心にある郷社の神社にまつり組を組織して、そのまつりに参加するようになった。一方、自村の神社のまつりも別に行っていた。こうして国中や小木・徳和・小倉・相川などでは、数か村にわたるまつり組によるにぎやかなまつりが行われるようになった。

郷社の祭礼
 広い範囲にわたるまつりが行われるようになる理由には、政治権力や神社の威光があるが、このほかに水の供給が一つの水系にそって広域に連帯をする必要が生じたことからもきている。地頭や村殿による土地開発の時代になると、村々が地域的に結束する必要から地頭の居城のある本郷を中心にしたまつりが、盛大に行われるようになった。
 また、中央の有力神社の神人(布教師)によって、農村が神領に加わったところがある。二方潟・谷塚・長畝(現在新穂村長畝)が越前敦賀の気比神社の神領となり、八幡砂丘には岩清水八幡宮、加茂湖南岸は八王寺牛頭天王社(祇園八坂神社)の神領が成立した。また中世には、加茂郡の西部、大野川・新穂川の扇状地上に近江(滋賀県)の日吉神社の荘園である新穂荘があった。