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文・写真:さとう としを

春まつり(二)

オマツリハジメ
 まつりは神と人との数少ない出会いの日である。神が自然神の性格をつよくもっていた時代には、自然がすがたを変える四季の節目に重要なまつりがあった。二月四日の立春の日をオマツリハジメといっているところ(真更川)がある。
この日は米づくりの開始を意味する。正月のほかに立春を元日とした時代が別にあった。朔望暦である旧暦法で立春の日に元日がくる日があったが、この日をとくに祝賀した。
立春正月の感覚でいえば節分の夜を年越といい、この日に正月行事に似たものを伝えているのは当然であり、正月行事が節分に移ったのではなく、年のはじめは立春の日であったことを示すものであろう。
節分にヌルデノキ(ゴマギ)を割って「十二月」と墨書して出入口や窓におき、この「十二月」の頭に悪臭を放つシオカラを塗って魔よけにしている家(小野見)がある。二見半島にいくと戸口に「立春大吉」という紙をはりつけてある。節分に炒った豆を撒く行事も追儺という年越行事の一つであった。
大豆には穀霊が宿るという信仰があって、災いのもとになる鬼を外部へ追い出し、自分の年にひとつ加えた数だけ食べるという習いもひろく行われている。ひとつ加えるのは年越を意識してのことであろう。立春に集落の旧道の入口にハリキリの護摩真言の札という祈祷札を下げるところがまだ相当数残っている。
真更川のオマツリハジメにはシロモチを神様に供える。一晩つけた餅米を摺鉢ですって餅状にしたものをシロモチといって、それを神棚・堂・オヤガミサン(鎮守)に早朝供えて廻わる。シロモチは古来、神に供える餅として特別に扱われ、火をあててない神聖な餅であった。

オマツリオサメ
 佐渡には忌みの日という物忌みの日があった。経済成長前の真更川の調査では、正月末から二月四日朝までを春の忌の日、秋は十月末から翌月卯の日までをいっていた。
秋は米づくりの終わりを意味するオマツリオサメが霜月の卯の日であったために、この米づくりの始めと終わりにあたって、神をまつる謹慎すべき日を忌の日として設けたのである。
旧暦による元旦と立春の日、十月末から卯の日までの長短があって、これを「忌みナカセイ」といっていた。この期間が長いと長い麻がとれるとか、忌み期間中に始めた仕事は長びくとかいった。オマツリハジメは祈年祭、オマツリオサメは収穫祭の意味である。
 二月四日、真更川では地蔵堂で百万遍念仏が行われている。雪深い山中の山居の行事を里村で修行の上人と村びととが一体になって行われてきた百万遍であったが、現代もつづいている。これは念仏講中の春まつりである。小泊では如意輪寺で春祈祷真言がある。羽茂から赤泊間の上浦でも、同じ日、春の護摩祈祷がある。むかしは、忌みの日があけた元日のまつりであったものだろう。