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文・写真:さとう としを

金北山まつり

北山の神仏
 男の子が七歳になるとオヤマ(金北山)参りを親といっしょに行うところが佐渡にあった。子供の成長過程の人生儀礼の一つであったが、なぜ金北山にのぼるかは、金北山が佐渡の霊山であったからである。
 佐渡は大和朝廷が成立してから室町時代ころまではずっと日本の最北の島であり、古くは延喜式の記録にも、やはり日本の北は佐渡となっている。中世の記録では金北山を北山といっていたこともわかる。この北山が金北山となったのは戦国時代のころらしい。
 北山時代には海上交通によって、加賀の白山の神人(布教師)が、さかんに佐渡へやってきて、十一面観音などを祀る白山信仰を広めた。北山にもこの観音を祀ったのである。また北山は佐渡国府の真北にあたるところから、北方守護の山として信仰されてきた。そこへ、山中で苦行して独特の呪力を身につけた山伏が北山を修行の場として活動し、真言系の密教の山になった。北山への登山口は横山口、新保口、中興口、真光寺口、沢根口などがあって、霊山としての里宮がそこにできた。

境神
 古来、高い山は地域あるいは行政区の境にあてられる場合が多かった。北山も例外ではなく、雑太、賀茂の郡界に利用していた。地図上で小佐渡の東境山から北西に線を引くと、長谷の愛宕山、城ヶ平、金北山、後尾の影の神に至る境界線になる。このことを『佐渡国雑志』では、「雑太郡、加茂郡ノ境ハ影ノ神窟、山ハ金北山堂乾柱限り」とある。金北山頂から戌亥(北西)にあたるのである。冬に至り南に下った太陽により金北山頂の影を、影ノ神の巨岩にうつすとされていた。
 インドでは境神のことをシャグジと呼んだから、現世と来世の境に立って、死者を救うとされる地蔵菩薩の信仰と習合することになった。また一方、村々の道祖神や塞の神(境神)とも習合し地蔵は村境におかれた。

将軍地蔵
 このようにして、北山上に祀られた十一面観音信仰の時代から地蔵信仰の時代に入った。このシャグジの地蔵はやがて将軍地蔵と呼ばれるようになり、戦国の武将たちによって勝軍地蔵ともいわれるようになったのである。
 北山を金北山といったのは、金山がこのころから開発されたことと関係があるだろう。また、金北山まつりが八月二十三日に行われているのは、地蔵まつりが二十三日〜二十四日であるためである。
 八月二十三日から二十四日にかけて、佐渡中で地蔵まつりが行われる。二十三日宵から次の日の午前まで、おこもりで行う梨の木地蔵堂のようなところもあれば、月布施(両津市)の権現山(天狗堂、明治に愛宕神社)まつりのように、二十三日にするところもある。月布施の浜を行者浜といわれ、天狗堂、古峰山、金北山というように、山伏の修行のあとが考えられ、海からそれぞれの山頂を結んでいくと一直線になる。海上を航行する回船の山あてにもつかわれた。
 金北山まつりの日は、古くからかかわりの深かった真光寺(佐和田町)の金北山神社で神事があり、そのあと山頂でも行われる。