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新穂村北方、天神まつりの子供鬼太鼓









文・写真:さとう としを

天神まつり

十二神の風土
 自然界のあらゆるものに霊魂を宿すという信仰(アニミズム)は原始神道にみられる多神教の信仰である。この信仰は南方系のイネの栽培地帯のような、多雨で肥沃な土壌が分布する季節風地帯では、その農耕儀礼をともなって独特な発展の仕方をしてきた。
 多神教の風土は「ヤオヨロズノ神」の信仰として、農耕と関係の深い自然の諸現象を神格化してきた。
 佐渡では山や海の自然崇拝の神々を十二神という言い方で祀ってきた。山の神であればオオヤマツミ(大山祇神)、海の神であればワタツミ(綿津見神)とした。また、水源の神であればミクマリノカミ(水分神)といった。つまり、ひろくみれば、いずれも天神である。
 しかし、やがて、このような自然神は人格神に吸収されていくことになる。
 社が建ち、その神社の縁起がつくられると、最初の信仰のすがたは消え、神社境内の荘厳さも加わって、そこに人間的な意識や感情を有する神々が誕生してくる。その変遷のすがたを残したものが、しばしば見うけられる。例えば、山そのものが御神体であった例に、北山(金北山)や羽黒山(五月雨山)、米山、古峰山、牛尾山などであり、山の麓には里宮や堂宇をもうけている。このほか御神体が巨木(杉、栢、松など)の場合もみられる。西三川の小布勢神社のように本殿がなく、かわりに岩石だけがあることもある。そこを磐座といっている。また、注連縄を四方に張って聖域にし、まつりには、そこへ神霊を招く場所をつくることもある。

農耕と自然神
 まつりの規模が拡大すると、まつりのたびに仮屋をつくり、やがて、神のために恒久的な社殿(本殿)がつくられた。社殿ができると、御神体として鏡や岩石、寄り物などの自然物が置かれ、かつての御神体にかわって信仰されるようになる。
 原始の農耕民は、低地からあがって山あいの水流のある扇状地の扇頂や扇端の清水のあるところに、早くから定住してイネを作りはじめた。その人びとは、年ごとのイネの収穫を確実にするために、ムラ全体でイネのまつりを行った。突如おきてくるおそるべき自然の諸力のまえでは、人間は無力にちかく、そのためにおきた凶作は、ムラの存立をもおびやかした。
 水源をさがしあて、コメの適地にムラをつくった集団を名といった。その長を名主といって、かならず信仰の対象として自然神を祀った。ムラの旧家が湧水に天神を祀っている例などは、名の地神をむかしからうけ継いでいるのである。

天神さん
 新穂村大野の安田長右衛門家や赤泊村大杉の佐々木六右衛門家の天神社はこの例である。江戸時代には安田家の西側に一反五畝の天神の田があり清水があった。一方、海村の佐々木家の場合にも、天神社のかたわらにカヤノキの古木があり、やはり清水がわきでている。
 毎月二十五日を天神さんの日としているが、もとは、多くの土地に天くだる神を天神とよんでいたもので、のち菅原道真のような不遇な死をとげた怨霊と結び、天満天神の信仰に統一された結果、京の北野神社に道真の霊をまつったという経過がる。まつりの日は菅原道真の生年によったものであるが、そこには道真以前の天神への信仰があった。
 しかし、菅公の怨霊がしずまり、おそろしい御霊の活動がおさまったのちは、天神は学問の神としてあがめられるようになった。

北方の天神まつり
 新穂村北方のマス川道の北、金北山をのぞむたんぼの中に、半田清左衛門家の元屋敷があった。半田家は北方沖(谷塚村沖)の水田開発の名主であった。新穂川の氾濫原の尖端部にあって、その氾濫原を開発した場所である。ここには天神の小祠と梅の木が残っている。祭日は六月二十四日、まつり当日には馬まつりがあった。現在でも地元の子供鬼太鼓が各戸を門付けしてまわり、半田天神の元屋敷まで鬼太鼓が出向く。新穂町馬場、乗光坊境内にも天満宮がある。新穂荘時代からの天神であるかどうか、まだ確かめられないが、天満宮天神像は寛政八年に開眼供養したとある(『新穂まち今昔』)。このまつりは翌六月二十五日に行われている。