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射手の「シオアビ」(河原田の浜、中興神社)










文・写真:さとう としを

現代ほど「まつり」を広く解釈し、多用している時代はない。祭りの意味は神を迎えるのに用意された祭場へ、依代に降臨した神に神饒・神酒などの供物をささげ、神人共食して、神と人とのつながりを深めることである。
したがって、日本のような農耕社会にあっては、一年の家内・郷内安全と五穀豊穣を神に祈って、この願いやお礼を申し述べる行事ということになる。現代、よくみられる誘客のための即物的な祭り行事は、本来の意味からはだいぶはずれてしまっている。

多神教的風土
ふるい昔からの年中行事は、この神祭りの神事が中心になって、それに季節の移り変わりに即して、神意による吉凶の判断などが加わって、長い間かかって生活のなかに組み入れられてきた行事である。
また、祭りは家々の小さな祭りから、同族・一つの村落、または数か村落に及ぶものまで、大小さまざまな祭りがある。
米生産という定住生活を前提とする農耕社会では、なによりも、生産にかかわりをもった村落が団結し、協力し合っていることが必要であった。米生産と神仏信仰との関係は、農耕が自然からの影響をつよく受けるがゆえに、多神教的風土が根づよく根底にあって、近代社会が確立した体系的宗教以前の体質を残している。このことが社会の近代化をさまたげていたのではなく、もっと根っこのところで、生産と信仰を結びつけてきた。米ずくり民族のあり方を見直してもいいのではないかと思っている。

みそぎ
ふるくは人目につく山・巨岩や巨木・森、「みさき」などに臨時に仮屋を建てて神を祀った。金北山(北山)や米山または山王の森、小木三崎の先端などに社を建てた。佐渡のような島国は、どこよりも、海から上って、陸上に神々の社殿を建てたと思われる例が多い。西三川の小布勢神社のように、拝股の奥に本殿がなくて巨岩(磐座)だけの場合もある。
八百万神が自然に依存して、その神が海の場合には「リュウゴン」(竜権)さんと言い、陸上では「ジュウニ」(十二権現)さんと言ってきた。いずれも自然神である。
この神々の祭りに、集落を代表するう名主が、社人となり司祭の役割をはたしていた、祭りには、この社人と関係者が物忌みに服するのが通例であった。これを忌籠りといった。両津市羽黒神社の祭礼(六月十五日)には、流鏑馬関係者が行屋に籠り、この小屋で精進生活をする神事がむかしながらに行われている。祭りには、穢れをとくに忌み避けねばならないのである。精進生活は穢れを祓う方法のひとつである。 この精進生活のなかに「ミソギ」(禊)がある。禊は祓の一種である。

はらい
佐渡では、神事に先立つ禊が残っている。金北山への登山道に「ハライ川」というところがある。神社の参道にある手洗鉢は、この禊はらいの簡略化された形である。流鏑馬では海水に浴するシオアビが重くみられている。内陸の神社から海辺にきて沐浴する風習は、新穂の日吉神社、羽茂の度津神社、梅津川の谷口にある羽黒神社、久知川の中流にある八幡宮をど、数例あるが、あまり知られてない中興神社でも、祭り前日と当日の早朝、河原田の海岸で、このシオアビ(潮あび)が行われているのである。