新津市美術展覧会ギターコンサート 顛末記

吉田 勉  

  1 始まりは突然
 あるサークルの日、それは前触れもなく告げられた。
「吉田さん、新津市美術館で市展があるのでギターのコンサートをしませんか」
それがその後3ヶ月の悪戦苦闘の始まりだった。ことの要領がすぐには飲み込めなかった。
 「ちょっと待ってください」というのが精一杯で、澄まし顔で言うTさんをまじまじ見つめた。どうやら冗談ではないらしい。けれど、なんで私が・・・。わたしにはまだまだそんな実力は・・・・・。え〜と何か断る口実はないか・・・そこで閃いた。
 「落合さんがいるじゃないですか。あの人に出てもらいましょう。・・・ね。」
彼なら申し分ない。レパートリーは豊富だし技量も十分。ほっと胸をなで下ろした私にTさんは一言。
 「そうなんです。その落合さんと二人で出て欲しいんです」 
先生はテーブルの向こうでにこにこして、引き受けるしかないと納まってる。けれど私は即断は出来なかった。しばらく考えさせてくださいとその場は切り抜けた。
 悩んだ末、夜、Tさんに電話し引き受けることにした。落合さんと一緒なら、何とかなるだろうという腹であった。彼がほとんど弾き、私は曲目紹介などをすればいい。まあ弾いても一曲だなと高をくくったのだ。
聞けば落合さんは即断したという。う〜ん、やはり実力者は違う。

 2 そして呆然
 暑気払いの会の後、ファミリーレストランで先生と落合さんと3人でどんなプログラムにするか相談した。というより落合さんと先生が話をし、私はそれを聞くことに終始したと言った方がいい。
「せっかく二人でやるなら二重奏をしたいなあ」何気なく落合さんが言う。
「カルリのロンド、あれいい曲ですよね。ラルゴとロンドのロンドの方ね。あれやりたいなあ」などとも言う。
「ああ、タンタンタラタラかね」先生が旋律を口ずさむ。
「ジョンとジュリアンブリームのテープ、車にありますよ」落合さんがもうすっかり乗り気になっている。私はなんのことかさっぱり分からず、ただ聞くのみ。どうやら私が二重奏をやることに今決まったらしい。先生のタンタンタラタラが頭の中で鳴っていた。もちろん聴いたことのない曲だ。
 帰りに落合さんの車に乗り込んだら、件の曲を流してくれた。恐ろしく速い曲で、それも掛け合いのような旋律。これをやるの?あと3ヶ月もないのに、これを?「先生に楽譜送ってもらってください。気楽にやりましょう。出来なければそのときはそのときってことで、ねっ吉田さん」いい加減酔ってもいたのでなんだか曖昧ながら承諾した。
 翌朝、酔いが醒めて借りたテープを聞き直した。そして数日後、先生から楽譜が送られてきた。めいっぱい音符が並んでいる楽譜を前に私はもう一度つぶやいた。これをやるの?

 3 とにかく猛然
 練習より他に不安を払う方法はない。しかし楽譜を読めない悲しさで音符とにらめっこの日々が幾日も続いた。そして当然合わせて弾くという段階は遙か彼方にあった。
 その日以前は、テキストの曲をじっくりとやっていれば、何ヶ月かかってもいつしか先生に○がもらえて、そして次の曲というステップが自然に来た。けれどそんな悠長なことはしていられない。最後の完成の期日が決まっているのだ。だからそれまでの個人の練習曲は一旦すべて中断して、練習時間の一切をコンサートの曲それも最後に弾くロンドに費やした。空けても暮れてもタンタンタラタラ、タンタンタラタラ・・・・。
 9月に入って初めて先生と合わせることになった。同じ場所に落合さんも居て弾く。これはある意味でひどく緊張することであった。落合さんに呆れられるのじゃないか。こんな人と組んで失敗だったと思われるのじゃないか、と。そして結果は悲惨であった。まだ最初から3分の1も満足に楽譜から読めていなかった。もちろん合わせるという段階にはほど遠い。自信もなく「次のレッスンのときにはなんとか」と言ってみたけれど、その確証は何もない。不安そうな落合さんの視線を浴びつつ階段を下りた。

 4 いつでも悠然
 練習場所は当初私の自宅であった。土曜の午後、落合さんにわざわざ来てもらって二重奏の練習をする。だからそれこそ必死になって練習をした。やっとこすっとこ弾く私に対して、落合さんはいつも苦もなく弾く(少なくとも私にはそう思えた)。ゆっくりでもいいから二重奏らしく弾きたい。その思いが練習の後押しをした。「スピードはゆっくりでもいいから合わせましょう」落合さんは優しい。その気持ちを無にしないように、合奏の練習後もまたギターを抱えた。次の土曜にはどうにか形を付けたい。しかし、思うように動かない指・・・・。
 2回目の土曜日が来た。このときの気分は不思議なものだった。それまでの練習量は自分でも満足のいくものであったし、練習への集中度も高まっていた。そして少し二重奏らしいフレーズが出来上がりつつあった。このときの練習を境に「やれるかも知れない」という思いが沸いてきた。それまでは、出来なければ仕方がないといういわば逃げ場のある練習であったが、この日からは違う。これならどうにか落合さんに恥をかかせない程度にまで持っていけるかも知れない。

 5 思えば偶然
中学の頃、フォークブームの中で母に「ギター買ってくれ」とせがんだ。お世辞にも裕福な家でなかったので、そんな余裕はないことは先刻承知のこと。しかしある日、母はギターを持って帰ってきた。私の前にガットギターを出して母は言った。
「ほら、拾ってきたよ」 
聞けばゴミ捨て場の山の上に置いてあったという。人目も気にせず、悪く言えば漁ってきたわけである。私は恥ずかしいのと情けないのとで言葉を失った。しかし、母にしてみれば子供が欲しいと言っているそのギターが今まさに目の前にあるのだ。見れば壊れている分けじゃないし、ちゃんと6弦とも揃っている。これを見逃す手はない。母はそう考えたらしい。 
私は仕方なくそれを弾いた。ネックがかなり反っていて、ハイポジション(むろんその頃の技量では必要ない場所ではあった)では弦高が異常に高くなっていた。それになにより太いネックが弾きにくい。それでもしばらくはそのギターで井上陽水、かぐや姫、さだまさし、松山千春などをコピーしてそれなりに楽しんでいた。ギターがない頃から比べたら、少なくとも今は弾くギターがある。もっとも当時は弾くというより掻き鳴らすという弾き方で声を嗄らして一人悦に入っていたのだからギターであれば何でも良かったのだ。 
しかし、やはり友人達の持っているモーリスとかヤマハとかのフォークギターが羨ましかった。学校でギターの話題になっても、自分もあるとは言い出せなかった。そしてお年玉などを貯めてある日ヤマハのギターを買った。嬉しかった。ちゃんとピックガードもあってネックも細いし、なにより自分はフォークソングを歌っているという気になれる。私は急に友人達の家に出かけたりした。もちろん家に呼んだりもした。なにしろ私にはフォークギターがあるのだ。 
しかし、生来の飽き性でそんなギター熱も、ものの2年ほどで冷めてしまい、感動して手に入れたヤマハのギターも学生時代に後輩に売ってしまってもうない。母が拾ってきたあのギターはまだ実家の納戸にあるのかも知れない。思えば両方のギターに悪いことをした。 
そんな頃からあっという間に二十年が経った。その後気まぐれに買ったオベーションのギターもケースに入ったまま、ギターについては全くの空白期間が続いた。 
そして、まごまごしてたらすぐ四十だなあと思っていたある日、NHKの『トップランナー』で村治佳織がギターを弾いていた。私は食い入るように見た。彼女が誰であるか私は知らなかった。けれどその美しい音色、華麗な指使いに魅了された。 
いろんなことがわっと押し寄せてきた。仕事から離れると価値のない自分、様々なことに手を出しては中途半端で投げ出してきた自分、器用であるがゆえに何かに一途になれなかった自分。それまでの「私」がその瞬間にはじけた。 
そして、初めて真剣にギターをやろうと決心した。今ならまだ、そんな気持ちが後から後から堰を切ったように溢れてきた。 
ギターを習って1年目で転勤。新津に来てたまたま電話帳で調べて根本先生の教室へ。そして今回の美術館コンサートへ。

 6 次から次と唖然
 新津市美術館へ初めて二人で行って打合せをした。担当は山口さんという大変気さくな方だった。何から何までよくしてくれて、こちらの要望を根気よく聞いてくれる。パンフレット作りから練習の会場の手配まで、申し訳ないほど手厚くしていただいた。 
美術館と道路を挟んで向かいにモデルルームがある。そこが土曜の練習場に使ってよいことになった。土曜の午後、落合さんと二人で2時間程度練習をした。こんな立派な練習会場を毎週それも無料で使わせてもらえるなんて、「ありがたい」以上に言う言葉も見つからない。 
その頃、ロンドもどうにか合わせられるようになっていた。私が弾くことに精一杯なのに落合さんは余裕で、今日はビデオで撮って確認しましょうとか、間に入れるトークはどんな風にしましょうかと、なにくれとなく気を配ってくれる。パンフレット原稿も彼が一手に引き受けてくれた。思えば、弾くだけではコンサートは出来ないのだ。それを彼はよく知っている。その面でもわたしは彼におんぶにだっこ状態であった。彼なくして今回のことはあり得なかった。 
いつしかアンコールがあったらどうしようという話になった。私はそんなことはつゆほども考えていなかった。プログラム通り弾いたら終わり。それしか思っていなかった。けれど落合さんはそこまで考えていたのだ。そして「大丈夫ですよ、アンコールがあったら自分が全部弾きますから、弾ける曲なら何曲もありますから」と言う。そうでしょう、そうでしょう。私は全幅の信頼を彼に置いた。アンコールが来たら、私が司会をして彼がギターを弾く。それでいい。 
ところが、「考えたんですけど、今回のコンサートは二人でやるのですから、アンコールも二重奏をしましょう」
えっ、ちょっと待ってくださいね。私は今ので精一杯なんですよ。これ以上二重奏で何を弾けばいいの。最後はみんな弾いてくれるんじゃなかったの?
「『若者たち』いいんじゃないですか。新津市音楽祭でも合奏しますからね」一人で納得している。もちろん弾けることは弾けるだろうけれど、練習しなくちゃ、ね。 
これで終わりかと思ったら、翌週の練習日に「もう1曲アンコール用に二重奏しましょう。『花』やりましょう。いい曲ですよね」 
いい曲ですよ。私も好きです。けどね、もう本当に手一杯なのよ。それをこの上、・・・・。 
そして翌週更に「もう1曲やりましょう。『ひまわり』これを最後に弾きましょう」この人は本当にギターが好きなんだなと私は確信した。

 7 こうなれば自然 あわよくば陶然
 いよいよ当日になった。生憎の風雨。しかしそんなことは気にならなかった。気にしている余裕がなかったのだ。 そして本番開始。階段を下りてステージに向かった。知り合いが沢山来ている。この時点ではさほど緊張していないと感じていた。が、指は正直だった。
 『放課後の音楽室』   二重奏 
 最初の曲から思うように指が動かない。特に右手がひどく、テンポを確保できない。どうにかこうにかオープニングが終わり、プログラムが進んだ。 
 『あの日に帰りたい』  落合 
 『禁じられた遊び』   吉田 
 『時の流れに身をまかせ』落合 
 『 月のある日』    吉田 
 『暁の鐘』       落合
 そしてあの練習を重ねてきた曲が始まった。 
 『対話風小二重奏曲集2番より ロンド』二重奏
そしてそれはとんでもなく速いテンポで始まった。あれほど直前に、急がないでちょっとゆっくり目でやりましょうと話し合っていたのに、始まったら今までにないくらいの速さで始まってしまったのだ。テンポが速すぎる。正直焦った。けど、もうどうすることも出来ない。弾くしかない。   
  タンタンタラタラ、タンタンタラタラ 
少なくともこの速さで練習したことはない。しかし不思議と「失敗する」という気持ちにはならなかった。私にしてみたら奇跡だった。後で妻に聞いたら「へえ、あんなに速く弾けるようになったんだ」と感心していた。何しろ彼女は日ごと夜ごと家で下手なロンドを聞かされてきたのだ。 
そしてロンドを弾き終えた。拍手が押し寄せてくるようだった。これほど自分自身が満足して拍手をもらったことはない。ほっとした安堵感よりも、達成感の方が強かった。苦労したけれどやってきて良かった。 
望外の花束ももらい、そしてアンコールを弾いた。
『若者たち』 
『花』
ゆったりとした気分の二重奏だった。間際に練習したけれどこれもやって良かった。速いロンドの後にこの2曲。このコントラストを落合さんは見越していたのだ。素晴らしい。それにありがたい話だ。 
今回のことはもちろん私の力量ではとうてい無理なことであった。多くの人の手助けや応援のお陰でここまで出来たと思っている。 
落合さん、根本先生、ギタークラブのみなさん、美術館の山口さんと太田さん、そして家族とくに妻に感謝してこの文章を終えたいと思う。


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