パブロ・カザルス「喜びと悲しみ」

寺 島 芳 明  

 半年くらい前に、「パブロ・カザルス 喜びと悲しみ」(朝日選書)を買って読んでみました。名前だけは聞いたことがあるのですが、カザルスがどんな人物なのかそのときはよく知りませんでした。カタロニアが生んだ世界的チェリストだということも。本の前半は、主に生い立ちから音楽家として成功するまでを、回想録を交えながら淡々とした調子で筆が運ばれています。後半では、カザルスがその生涯を通して情熱を傾けた平和と強い人間愛について活動した記録が刻まれています。前半は割とすんなり読み進められたのですが、後半になるにつれやや内容的にも難しくなって息切れがしてしまい、飛ばし読みになってしまいました。ですからまだ完全に熟読してはいませんし、また私みたいな凡人が感想文など恥ずかしいのですが、いろいろ感じたこともありますので少しばかり書きとめてみました。 

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 パブロ・カザルス(パブロ・カルロス・サルヴァドル・カザルス)は、1876年12月29日、カタロニアの小村ヴェンドレルで、教会付きのオルガン奏者を父とし、その教え子であった母との間に長男として生まれました。小さいときから父より、オルガン、ピアノ、ヴァイオリンを習い、8歳のときには父に代わって教会でオルガンを弾き、その才能に近所の人たちを感嘆させたようです。11歳のとき、ヴェンドレルで開かれた音楽会で、ホセ・ガルシアのチェロを初めて聞きその素晴らしさに魅了され、以来生涯に渡るチェロとの長い付き合いが始まりました。父はパブロを大工にするつもりだったのですが、既にパブロの才能を見抜いていた情熱家の母によって、音楽家の道を歩き始めました。その後バルセロナ、マドリード、ブリュッセルなどで学び、23歳のときパリで当時の大指揮者ラムルーの演奏会でチェロの独奏をし、一夜にしてチェリストカザルスの名が世界に知られるようになりました。ここに至るまでの間、カザルスは多くの芸術家、音楽家と出会い、その中には絵画のピカソやまたギターの世界でも知られているアルベニス、グラナドスといった人たちもいたようです。

 パリで成功を収めたカザルスは、アメリカを始め世界各地で演奏活動をし、25歳のとき(ある本では1909年と書いてある)、初めてバッハの「無伴奏チェロ組曲」の全5楽章を、繰り返しを省略しないで弾き、絶賛されました。それまでこの曲を最後まで完全に弾き通した音楽家はいなかったようです。この話にはほかにも感動したところがあって、後で重複するかもしれませんが、実はこの曲の譜面を見つけたのはカザルスが13歳のときであり、以来12年間人前で弾く勇気がでるまで曲の研究と練習をしていたとのことです。これには深く感動しました。12年間ですよ。なんか気の遠くなるような感じがします。(さて1人の人を12年間愛し続けるのとどちらが難しいでしょうか。ちょっと冗談です。)

 やがてカザルスは、1919年バルセロナに戻り、1920年、自費で88名の「パウ・カザルス管弦楽団」をつくって、今度は指揮者として祖国の音楽活動の普及に努めました。これを基にバルセロナに「勤労者音楽協会」が設立され、協会を中心としてアマチュア合唱団や音楽学校などが作られるようになりました。カザルスはこの運動に心から打ち込んだと言われ、それを知った各地の名のある演奏家達が惜しみない協力をしたと言われます。ただこのころから少しづつ世界大戦の暗い影響が見え始め、1936年、「第九」の練習をしていた楽団は、ファシストの暴動によって練習の中断を余儀なくされました。この日を境に楽団は、「この国に平和が戻る日、再び第九を演奏しよう」と誓い合って解散したということです。

 1938年、カザルスはフランコ独裁政権の圧政に抗議してスペインを去り、ピレネー山脈の小都市プラードに移り住みました。大戦が終わるまでの間、フランコやナチスの迫害や音楽家としての勧誘にも一切応じず、プラードから一歩も出ることはなかったようです。そして大戦が終わった1945年、カザルスは再びパリ、ロンドンで演奏を開始し、大熱狂で迎えられたと言われます。でも戦後フランコ独裁政権の復活とそれを容認煽動した世界諸国に対し、カザルスは、1946年の演奏を最後に「スペインに自由と人民を尊重する政権が再建されない限り、チェロの演奏はしない」と宣言して、プラードに閉じこもってしまいました。世界の音楽家達はこれを非常に嘆き、ついには1950年のバッハ200年祭のときには、逆に世界各国から著名な音楽家達がカザルスの基に集まり、プラードで盛大なバッハ音楽祭が開かれました。

 その後カザルスは常に音楽を通して自由と平和を訴え、世界の不誠実に対して抗議してきました。その一つの印が、演奏の最後には必ずカタロニア民謡の「鳥の歌」を弾いてきたということです。この歌は、もともとはキリスト降臨を歌ったものですが、カザルスによって圧政から祖国を離れることを余儀なくされたスペインの亡命者の望郷の歌として知られるようになりました。カザルスは、1945年以来このカタロニア民謡の「鳥の歌」を演奏の最後に必ず弾いて、祖国への悲しみと抗議を訴えてきました。そして1973年10月、心不全のためプエルトリコの病院に入,院、危篤状態を続け、10月22日、96歳と10か月で帰らぬ人となりました。自由な祖国で再び「第九」の指揮をするというカザルスの夢は、ついにかなえられませんでした。でもカタロニアのモンセラート修道院では、カザルス作曲の宗教曲が今でも少年合唱隊によって歌い続けられているということです。

 以上がパブロ・カザルスのおおまかな足跡です。本を見ながらまとめてみました。ただまだ感想文を書くという領域までには達しておりませんので、以下では本の中から、心に残った部分をいくつか抜粋してみます。

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 過去80年間、私は1日を全く同じやり方で始めてきた。(中略)ピアノに向かい、バッハの「前奏曲とフーガ」を2曲弾く。ほかのことをするなど思いも寄らぬ。       「喜びと悲しみ」

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 14歳のとき、バルセロナで私は最初の本格的な演奏会をした。(中略)会場についたとき、「お父さん、曲の出だしがわからない。曲の音符が1つも出てこないんです。」父は私を落ち着かせてくれた。あれは80 年前のことだった。だが演奏前の恐ろしい焦燥感はいまだに克服できないでいる。       「喜びと悲しみ」       
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 港の古い楽器店で、突如、一束の楽譜を見つけた。それがなんとバッハの「無伴奏組曲−−−チェロ独奏のための」だった。私は驚きの目を見張った。(中略)私は12年間日夜、この曲を研究し弾いた。私がこの組曲の1つを演奏会で公開する勇気が出るまで、そうだ12年かかり、私も25歳になっていた。    「喜びと悲しみ」

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 教師たることは重大な責任をもつことである。「喜びと悲しみ」

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 私は常々テクニックは手段であって、それ自体目的でないと思っている。(中略)最も完璧なテクニックは全く目立たないものである。私は絶えず自分に問い続けた。「どうしたら、いちばん自然に弾けるか」と。私は市立音楽学校の生徒だったときに考案した運指法や弓の使い方、力を抜くことの重要さを生徒達に教えた。(中略)私はどうしたら瞬間的に、ほんの数秒でも、弾きながら手と腕の力を抜くことができるかを教えた。     「喜びと悲しみ」 

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 事故が起こったのはタマルペイス山から下りてくる途中だった。(中略)上を見ると丸石が私めがけてとんできた。頭をそらしたので危うく命拾いをしたが、石は左手にあたって運指の手を骨折した。友人は肝をつぶした。だが、肉が裂けて血が指から流れるのを見たとき、妙な別の考えが私の心に浮かんだ。最初に、「ありがたい、もう2度とチェロを弾かないですむ」と思った。 
                      「喜びと悲しみ」 

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 私の演奏歴のなかで、演奏前に緊張したりあがったりしなかったことは1度もなかった。これまで何千回とコンサートをしてきたが、そのたびに初舞台のときと同じくらいあがる。君、気がついていた?                    「鳥の歌」  

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 人は大きな期待をもって演奏を聴きにくる。その期待どおりだったという評価を得て初めて、あがるということの本当の意味がわかるのだ。                   「鳥の歌」 

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 もちろんテクニックはマスターしなければならない。だが同時にその奴隷になってはいけない。         「鳥の歌」 

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 大変長くなりまして、すみません。今回はとりあえずここまでということで失礼します。最後に参考しました図書名を記しておきます。
 
 「パブロ・カザルス 喜びと悲しみ」 (朝日選書)
 「パブロ・カザルス 鳥の歌」    (筑摩書房)
 「総特集 カザルス」        (文藝別冊) 


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