◇◇◇ ガンジスの夕映え ◇◇◇

第二十一章  暴 流2

 グリッダクータの山頂で、世尊を中心に、マウドガルヤーヤナ長老、プールナ、メッテヤ、アーナンダ、クマーラ、ダクシーナパティー、そして私、それに十数人の比丘が揃っていた。
 「重罪人を入れる牢に、ビンビサーラ大王が入れられているそうです」
 私は、ジーバカから聞いた牢のことを話した。そしてプールナが、王宮の模様について聞いたことを話した。
 「ビーデハ夫人は半狂乱です。侍女達のお陰で一応収まっていますが、息子アジャータシャトルのやり方を、火を吐くような言葉で呪っています。
 聞く所によりますと、今日で三日になるというのにビンビサーラ大王には、食事も水も与えられていないということです。このまま行くと、大王は餓死、王妃は発狂するでしょう」
 落ち着いた静かな言葉であったが、プールナの言っていることは聞く者を慄然とさせるに充分であった。
 私は、長い間の世尊とビンビサーラ大王との交誼を思った。ビーデハ夫人にしても、世尊の発意でマガダ国に嫁いだのだ。
 しかし、世尊の表情は、少しも変わる所なく厳然としておられた。
 「世尊、私がその牢獄を尋ねましょう。私も、精一杯出来る限りのことをしなければなりません。どうか世尊、私に牢獄を訪ねることをお許し下さい」
 そう言ったのは、マウドガルヤーヤナ長老であった。その言葉には、重い決意が秘められていた。世尊は、その言葉に軽く頷かれ、ゆっくりと口を開かれた。
 「マウドガルヤーヤナよ。お身より他にないであろう。行ってくれ。
 牢獄内で、大王にダルマを確かめて貰おう。心身に徹到して、法を聞くことが出来る唯一の時であろう。大王に、私同様、無上のボーディー(bodhi=菩提←道)を知らしめるのだ」
 この言葉に私も食いついた。私も世尊に願って、マウドガルヤーヤナ長老と同行する許しを得た。一方プールナとメッテヤの二人は、王宮に詰め切るように世尊からのお言葉があった。
 その時であった。弓の矢が三本、我々の集いの間に射こまれて来た。そして、大きな笑い声がした。
 「見たか、シッダールタ。気をつけるが良い。生命が危ないぞ。用心するんだな。今度は、当たるかも知れないからな」
 デーバダッタの声であった。メッテヤとクマーラ、そしてダクシーナバティーの三人が、声のした方に駆け出した。それは、疾風はやてそのものであった。しかし、暫くして、三人共空しく帰って来た。
 「逃げた。凄い速さだった。三人の兵と一緒だった」
 メッテヤは、そう呻うめいた。
 「世尊。申し訳ありません。私に、父を討つことをお許し下さい」
 クマーラが、思い詰めてそんな願いを言い出した。
 「いや、いけない」
 言下に、静かな声であったが、世尊はクマーラの言葉を拒絶された。
 「父を殺すことを、私は決して許さない。たとえそなたが、その父に殺されることがあっても、クマーラよ堪えるのだ」
 クマーラは、この世尊の言葉に今にも破裂しそうな顔になった。そういうクマーラを、ダクシーナバティーが抱いてその肩を叩いてやった。私にも、クマーラの辛さが響いて来る。メッテヤもプールナも、唇を噛みしめていた。
 弓の矢が射こまれたことによって、メッテヤの役目が新しく決まった。
 「世尊、私は世尊の身辺の護りに努めます。ダクシーナバティーとアーナンダ、そしてクマーラの四人で、身辺を固めておいた方が良いと思われます」
 メッテヤのこの発言を、マウドガルヤーヤナ長老が承知してくれた。
 「メッテヤよ、そうするが良い。恐らく、先刻の矢は警告に過ぎなかったであろう。しかし、今後は何が起こるか…。不測の事態に備えておいて欲しい」
 グリッダクータの山頂が襲われたのだ。マウドガルヤーヤナ長老の言うように、何が起こるか分からない情勢になって来たのである。
 「もう少し、比丘達に、世尊の周りに集まっていて貰うことにしなければならないだろう。王宮に行く前に、私はベルバナでそのことを頼んで来よう」
 プールナが、そう言って座を立った。私も、マウドガルヤーヤナ長老と一緒に腰を上げた。
 三人で、山を下りにかかる。麓に近く、弓が一本捨ててあった。私は、それを手にしてみた。強い、戦闘用の弓であった。
 「プールナよ、この弓を見てみろ。強弓だ」
 「恐ろしい奴だ。本気で世尊を狙う気だな。余程気をつけないといけないな」
 プールナも、覚悟を新たにしたようであった。
 牢獄の場所は、今まで気がつかなかったのに、この時はすぐ判った。警護の兵達が目印になったのだ。王宮へ行くプールナとは、そこで別れた。
 マウドガルヤーヤナは、悠然と兵士達の間を抜けた。私もついて行く。門があり、門番がいた。大きな身体に、真っ赤な着物を引っ掛けていた。
 「入る」
 と、マウドガルヤーヤナが短く言った。門番は、マウドガルヤーヤナをよく知る人であった。マウドガルヤーヤナは、牢内に入った。と、門番は、私を押さえた。
 「放せ」
 これも、マウドガルヤーヤナの一言があった。私も、牢内に入った。暗く、じめじめした厭な感触が身に迫った。両側に、部屋が続いていた。が、どの部屋も空っぽである。我々は、奥へと進んだ。
 最初の囚人を見たのは、残り四つの部屋数を余して右側の部屋であった。ビンビサーラ大王の侍従だった人である。ぐったりと床に寝て私達を見あげた。しかし、何も言わない。私達も、無言で進んだ。
 一番奥の部屋。そこに、ビンビサーラ大王の姿があった。格子を隔てて、マウドガルヤーヤナ長老が立つ。と、手枷をされた大王の手が、長老の手を握り締めた。
 「マウドガルヤーヤナ長老。つい先刻、儂は長老の名を呼んだばかりです。こんなにも早くお目に懸かれるとは。こんなに嬉しいことは、生涯一度の思いです。今程…、儂には…、人間が懐かしく…、朋友が慈しみに満ちて温かく思われることはありません。
 ようこそ、本当にようこそ来て下さいました。何という驚きでしょう。儂には、言い顕す言葉が見付かりません」
 そして、ビンビサーラ大王の言葉が切れて、涙が満身を流すかとばかりに流れた。
 投獄されて三日。一代にしてマガダの大国を築き上げた偉大な王も、自分のいつくしんで止むことのない一子アジャータシャトルによって捕らえられた衝撃は、余りに大きかったのだ。マウドガルヤーヤナ長老にも、全く言葉がない。長い時間が流れた。
 「マウドガルヤーヤナ長老。儂の最期を見守って下さい。そして、こんな儂にも、真のダルマの味わいを教えて頂きとうございます。
 つい最前、儂の妻ビーデハ・チェラナが参りました。儂に、僅かに食べ物を運んでくれました。門番に取り上げられ、ほんの一握りの手に残った米飯でしたが、三日ぶりに食べることが出来ました。あれも可愛そうに、随分苦しんでいる様子でした」
 ようやく、ビンビサーラ大王は、その身辺のことから話し始めた。長老マウドガルヤーヤナは、それをじっと聞きとっていた。
 「思えば、長老マウドガルヤーヤナよ。儂も、若い頃から、随分思い切った時世を踏み歩いて来た。わき目も振らず、一筋にこの国の繁栄を願って息む時がなかった。ここらがちょうど息む時なのであろう」
 マウドガルヤーヤナ長老は、この言葉に大きく頷いた。そして、言った。
 「大王よ、宜しく時を知るは智慧の始めであります。そして、宜しく己を思うは求道の第一歩であります。ブッダのサッダルマ(正法)を悦こぶ時が、今の大王に訪れたのでしょう。この機を失せず、無駄にすることなく道を求められるが良いでしょう。
 何の道具も、仕掛けも不要です。身一つ在る所が立派な道場です。しばらく、私の語ることをお聞き下さい。宜しいでしょうか」
 マウドガルヤーヤナ長老は、大王の承諾を得て語り出した。
 「大王、四つのことを念じて頂きます。
 その第一に『身』(kya)です。その第二は、『感受する精神』(vedana)そのものです。そしてその第三は、様々に生起する『心』(citta)です。そして第四に、『存在の理』(bhava)を思念してゆくのです。
 大王よ、1.この身は、浄でしょうか不浄でしょうか。又、2.感受することは楽でしょうか苦でしょうか。そして、3.心とは常なるものと言えるでしょうか、それとも無常でしょうか。最後に、4.存在は究極の実体を持っているでしょうか。
 この四つの問いについて、大王よ終日思念を進めて下さい。必ずや正念に住し、正思惟が成立し、智慧ある者となり智慧の言葉を語る者となり得ます」
 「長老…、儂は、幸いに真実者に遇うことが出来、そのダルマを学ぶことが出来ます。牢にいると、かえって人と生まれた身そのものを想起出来ます。
 だが、どうしても気に懸かることがあります。それは、儂の妻チェラナ(cellana)のことです。彼女は今、ブッダのダルマを聞いているでしょうか。今こそ、生命の真実を知る時でしょう。何卒、チェラナのことお頼み申します。
 それに、息子のアジャータシャトル。この者にも、正しい道を示して頂きとうございます。しかし、この方は時間の掛かることでしょう。愚かにも、血迷って、人と生まれた根源の意義に背いております」
 「大王、ご心配の件、世尊を念じ世尊の深広な心をお信じなされ。必ずや、大王の願いの実る日が参りましょう」


 牢獄に、私はマウドガルヤーヤナ長老と一緒に次の日も訪れた。そして、そこで私達は、チエラナ・ビーデハ(韋提希)夫人に会った。それは、驚くべきことであった。
 ビーデハ夫人は、その上半身に白い粉をミルクで練ったものを塗っていた。彼女は、前の日に取り上げられた食糧を、今度はその身に纏って来たのだ。それを、ビンビサーラ大王は、指でこそげ落として少しずつ口に運んでいた。時間の掛かる作業であった。格子越しの、変わった食事であった。
 ビーデハ夫人の首飾りに、葡萄の実が連ねられていた。そして、それを連ねている糸には蜂蜜が塗られていた。大王は、食べ物を食べ、果実や蜜で僅かに喉を潤すのであった。一日一度の食事であったが、これはこれで効果充分であった。私達は、その風景を息を呑んで見詰めた。二人の必死の姿が、根強く静かな感動を呼んでいた。
 恐らく、ビーデハ夫人の決死の思いが、門番を屈服させてしまったのであろう。入り口を通り過ぎる時の、夫人の凄い気迫と威厳を私は思った。
 長い食事が終わった。大王は、口を漱すすぎ手を洗って、夫人に目配せをした。ビーデハ夫人チェラナは、私達に会釈をして静かに牢を出て行った。
 そして、長老マウドガルヤーヤナの説法が始まった。大王は、耳を傾け、熱心にその身にダルマを聞き取っていた。その説法は、第一日の『四念處しねんじよ』についての繰り返しであったが、更に意味を深め内容を展開した語り口であった。恐らくは、大王に取っても尊い説法であったであろうが、それは他ならぬ私にとっても又とない聞法となった。
 昼も暗い牢内で、世間から隔絶して集中的に一筋ダルマを思惟することは、ある意味では死を覚悟した強い正念であった。それは、人に取って生涯に僅かに訪れる最高の日時であった。マウドガルヤーヤナ長老の、全力を尽くして語る言葉を通して、大王は生命の際を極めようとしていた。実に、こうして七日が過ぎ、十日が過ぎて行った。
 そんなある日、いつものように牢を訪ねると、この頃からビーデハ夫人も一緒にマウドガルヤーヤナ長老の説法を聞くようになっていたのであるが、ビンビサーラ大王が私達にこう言った。
 「長老よ、ナンダ比丘よ、そしてチェラナよ。この暗い部屋に、一つだけ両眼の幅で窓が空いている。何処が見えると思うね。
 何と…、グリッダクータの峰なのだ。前のラトナギリ(多宝山)に隠れそうで、しかしちゃんとその山頂は見える。儂は、あそこにおいでの世尊を朝夕礼拝をしている。
 儂は、ほら…、この窓から全世界の光を頂いている。それは、掛け替えのない美しい眺めなのだ。この牢獄も、住んでみればこれでなかなか天と地の恵みに満たされていると言って良いだろう。
 チェラナの運ぶ食事で、この老人には充分だし、長老に聞くダルマに儂は心身を洗われる。近ごろになって儂は、自分が幸せであると思う」
 派手な言い回しはなかったが、大王ビンビサーラの人生の集約がよく滲み出ていた。人間一人が、このように次第に煮詰まって来ている姿を見ることは、心ゆかしくさせられることであった。
 しかし、栄耀栄華を極めた一代の英雄が、最晩年に来って僅かに身体を横たえることの出来るだけの部屋にあることは、これはくっきりとした暗転であることを示していた。ビーデハ夫人チェラナの憔悴した容姿も、この頃になるとどんづまりの様相を見せていた。
 しかし、こういう日々も長くは続かなかった。二十日が過ぎ、二十一日目も過ぎた。そして、二十二日目の朝のことであった。
 ベルバナ(竹林精舎)で、私はマウドガルヤーヤナ長老と、その日の牢獄訪問の準備をしていた時であった。慌ただしい足音がした。ジーバカであった。七、八人の供を連れて、彼は私の所へ飛び込んで来た。長老に挨拶をするどころか、いきなりジーバカは叫んだ。
 「ナンダよ、大王が狂った。これは偉いことになる。王妃ビーデハが捕らえられた」
 いつも悠揚迫らぬジーバカが、この時は全く慌ただしかった。
 プールナもメッテヤも、ダクシーナパテイーも、パンタカ兄弟までが集まってきた。他に居合わせた数十人の比丘達も寄って来た。
 「ジーバカよ、大王が狂ったって、どっちの大王だ」
 メッテヤが訊いた。
 「ビンビサーラ大王ではないだろうな」
 と、これは私。
 「ああそうか、悪かった。アジャータシャトルの方だ。聞いてくれ。
 今朝早くだ、アジャータシャトルが、馬で散策中、例の牢獄に立ち寄ったのだ。そして、牢獄の門番に聞いたのだそうだ。
 『父はもう、生きていないであろうな』と。
 彼は『生きているか』とは、聞かなかったらしい。そして門番から、洗いざらい、今までのことを聞き出したのだ。
 マウドガルヤーヤナ長老が、毎日説法に通っていること、ビーデハ夫人が食事を運ぶこと。そのため、ビンビサーラ大王の心身は頑健であり、ダルマを学び、小さな窓から遥かにグリッダクータを祈るように眺めていること、等々をだ」
 ジーバカは、一同を見渡して一息ついた。そして、全員が次の言葉を待っている様子に言葉を続けた。
 「私が、今朝伺候した時だ。アジャータシャトルは荒れ狂っていた。ビーデハ夫人を呼べと大声を挙げ、手当たり次第に物をぶち壊していた。
 私より先に、チャンドラプラバ(Candraprabha=月光)という名の大臣と、バルシャカーラ(雨行)新大臣が伺候していたが、彼らにも手が付けられない。将軍は早々に退散してしまうし、全く暴風そのものだった。
 間もなくして、ビーデハ夫人がやって来た。可愛想に、窶れてげっそりとしている。
 その母を睨んで、アジャータシャトルは身体中を震わせていた。そして、遂に、たまりかねたように剣を抜いたのだ。
 夫人は、その死を覚悟したようだった。いや…、と言うよりは、その子によって死を迎える方を、自ら選び取っているように見えた。
 私は、もう夢中だった。とにかく、母と子の間に飛び込んで立った。二人の大臣も、私につられて母と子の間に立った。私も二人の大臣も、小さな刀に手が触れていた。ともかく、三対一となった。
 アジャータシャトルは一層激した。と、その時月光が、アジャータシャトルに問うた。
 『いかなる理由があって、実の母を殺害しようとなされるのですか。成敗なさるとして、判然りとその理由を本人に宣告なさるのが、法と言うものです。法的根拠や手続きを省はぶくのは、大王として相應ふさわしくありません』
 月光大臣は、法にこだわる人なのだ。彼は法の理念から、アジャータシャトルに迫ったのだ。これに、アジャータシャトルは少し凹まされたようだった。しかし、こう言った。
 『今や、私の命令が国の法だ。母と言えど、私の命令に背いた。牢獄に、ひそかに忍んで、重罪人の生命を助けたりした。これは、立派な罪ではないか。
 それに、私の師はデーバダッタ一人だ。父も母も、私の法を無視してシッダールタの教えを聞いたりしている。恐らくは、呪術を用いてこの私を祈り殺そうとでも謀ったりしているに違いないのだ。この罪を、私自ら成敗するのに何の邪魔だてをしようとするのだ』
 なる程、アジャータシャトルにも言い分がある。私は、苦しかった。私は、ビンビサーラ大王とは血のつながった従兄弟だ。そして、今のアジャータシャトルとも日ごろ親しい。私には、あの場合間に合う言葉はなかった。しかし、月光大臣は気強かった。
 『私は、ベーダ経典を悉く学び、また様々な古典から法の事例を学びました。大王よ、お聞き下さい。父殺しの事例なら幾らでも見いだすことは出来ます。この一千年の間に、数萬の父が殺害されました。しかし、実の子がその母を殺した事例は、一件もございません。
 もし大王が、その母を殺害なさるなら、それは…、も早…、人間の…、行為とは…、申せません』
 月光大臣は、最後の文句を、一語一語区切って力を入れて言い終えた。そして月光は、一人抜けて部屋から出て行ってしまった。
 アジャータシャトルは、茫然としてしまったらしい。残ったバルシャカーラと私を、虚ろな目で見詰めた。
 ここで、私の決意も決まった。バルシャカーラを促して、二人で部屋を退出して来たのだ」
 「すると…、ビーデハ夫人は、今…」
 「大丈夫だ。先刻、ここへ来る途中に私に報告が入っている。宮殿内の一室に厳重に監禁された。生命に別条はない。しかし自由は完全に奪われてしまった」    聞く者全員、暗澹たる思いにさせられてしまった。
 私に、もう一つ聞きたいことがあった。
 「ジーバカよ、ビンビサーラ大王の方はどうなった。まさか…」
 「それだ、その方が大変なのだ。アジャータシャトルが、今朝…、怒りに任せて、兵に命じて大王ビンビサーラの足の裏の皮を剃刀で削らせたのだ。大王は、もう立って歩けない。しかも、完全に厳しく監視されるようになった。食事も、これからは全く絶たれるようになるだろう。
 そしてナンダよ、マウドガルヤーヤナ長老の説法も聞けなくなる」
 「あの、たった一つの窓にも立てないと言うのか」
 「そうだ。大王は、もう立って窓につかまることすら出来ない。どんな思いでいられることか」
 「門番は…?」
 「彼も監禁された。同じ牢にだ。今は、兵士が守備を固めている」
 ジーバカの言葉を聞く我々は、その情況の容易でないことがいよいよはっきりして来た。
 そのジーバカの次の言葉に、私も、と胸を衝かれた。
 「皆さん。問題はビーデハ夫人ぶにんのことです。今こそ、あの方にブッダのダルマを語ることが必要だと思われます。私が思うに、プールナよ、君か長老マウドガルヤーヤナのどちらかで、王宮のビーデハ夫人を訪ねて貰えないだろうか」
 これは、かなり難しいことに思われた。アジャータシャトル大王は、言わば狂気に近い。それに、デーバダツタが王宮に眼を光らせているに違いなかった。
 「ジーバカよ、私でよかったら、無理を犯しても王宮に行ってみよう」
 「プールナよ、行ってくれるか。身の安全は私が保証しよう。十五人の兵を君に付けよう」
 ジーバカも、相当な警戒心を見せていた。所がその時、長老マウドガルヤーヤナが言った。
 「ジーバカよ、儂も行こう。プールナと二人だけで良い。かえって、兵士を連れて行くのは良策ではないだろう。儂らはどんな場合にも、平和で良識ある使者でなければならない」
 その言葉は、平然としており静かであった。が、そこにいた全員に重く響いた。
 「長老よ、プールナよ、お願いです私もお連れ下さい。私も、ビーデハ夫人とは古い拘わりがあります。こういう時こそ私も、彼女のために力になってやりたいと思います」
 この私の願いは、許された。早速、私を加えて三人で王宮に向かった。


 王宮で我々は、ビーデハ夫人の所在を問うた。黙って、一人の侍従が我々を案内した。少し順調過ぎて、何かが変であった。しかし我々は、決して後に引けない心境であった。
 案内の侍従は、振り向きもしないし、何も言わずに奥へ奥へと私達を案内する。恐らくアジャータシャトルには、このことはもう知らされていることだろう。警護の兵が要所にいたが、その兵達も我々三人に一言も言葉をかけてくれない。無気味な思いで、歩いて行くしかない。
 と、ビーデハ夫人のものと思われる大きな声が聞こえて来た。
 「ああ、世尊」
 と、その声は聞こえた。
 武器庫を改めて、ビーデハ夫人の牢が出来ていた。その入り口に、四人の槍を持った兵士が護衛していた。私達は、その入り口から中に入った。一番先に入った長老マウドガルヤーヤナが小さく、
 「おッ」
 と声を出して、それから深く会釈をした。
 世尊が、アーナンダとクマーラの二人を従えて、その部屋の中央に黙然と立っておられたのだ。私は驚くと同時に、大きな安らぎを感じた。
 世尊は、私達が来た直前にお着きになったばかりであったらしい。続いて入った私達三人を目に入れながら、ビーデハ夫人は世尊に集中していた。夫人は、我々が一緒に来たと思っていたのだ。
 それに、門からこの牢まで無言のままにすんなりと我々が通れたのも、実は世尊のすぐ後ろに蹤いていたせいであったのだ。
 長い時間をかけて、ビーデハ夫人は世尊を涙の目でじっと視つめ続けていた。世尊も私達も、この間一人として言葉がなかった。
 ビーデハ夫人は、その全心身で世尊を視つめていた。どんな言葉も、この場合間に合わないのだ。ビーデハ夫人は、どんなに強く驚き、どんなに温かく世尊その人を感じているか、それは想像を絶していた。
 本当に長い時の後、ビーデハ夫人はようやくその言葉を発した。
 「世尊…、妾は、今朝から此処に閉じ込められました。大王と同じ身の上になりました。悲しいことが一つございます。大王は、どうなるのでしょう。もう妾…、食べ物をすら運ぶことは出来ません。妾は、一体どうしたら良いのでしょう」
 この言葉は、落ち着いたものであった。が、言葉を発したことによってビーデハ夫人は、内心の動揺と矛盾が突き上げて来ることを抑えることが出来なくなったらしい。
 じっと世尊を見上げながら、ビーデハ夫人は次第に激して来た。美しい衣装に、様々な装身具が揺れた。宝石を縫い込んだ帯、カンタ(首飾り)、クンダラ(耳飾り)、バージュ(腕飾り)、ヌープラ(足飾り)が、小刻みにちゃらちゃらと音をたてた。
 「アジャータシャトル…。妾が生んだ子が、この妾を閉じ込めました。世尊、あの子が、どうしてまた実の父を幽閉したりするのでしょう。
 そうですわ、デーバダッタです。あの忌まわしい呪術者が、すっかりアジャータシャトルを駄目にしたのです。あんなに良い子だったアジャータシャトルを、すっかり駄目にしたのはデーバダッタですわ。
 世尊、世尊の従兄弟のデーバダッタです。こうなってしまって、妾に一体何が出来るのでしょう。もう、何もかもおしまいです」
 それから、忍び泣くような辛い声が続いた。そして、その泣き声が次第に大きくなって号泣に変わって行った。
 カンタ(首飾り)が、ちぎれて飛び散った。その美しい玉の散る音が、ビーデハその人を益々昂たかめたようであった。彼女は、両手のバージュ(腕飾り)を引き千切った。彩どり鮮やかな宝石が床面に綾なした。
 その宝石の上に彼女は倒れ伏し、見悶えして叫んだ。
 「こんなことが、許されて良いのでしょうか。こんなに惨むごいことが。こんな不幸な者が、他にいるでしょうか。妾は、どんな悪いことをしたというのでしょう。いいえ、妾に、そんな悪い過去はない筈ですわ。妾は、王妃に生れつく程に、前世で善行を積んでいる筈ですもの。何の因果が、妾に報むくいているものですか。
 世尊、デーバダッタが、あの人がみんないけないのです。そして、世尊、貴方にだって責任のなかろう筈がありません。
 妾が、この国に嫁ぐ種を植えて下さったのは、世尊、貴方です。その貴方は、デーバダッタ一人救えなくて、しかもアジャータジャトルがあんなになってしまうことを、止めることさえして下さいませんでした。
 もう、総てが終わりです。妾はもう、この世に生きる望みを失いました」
 ビーデハ夫人は、切れ切れに、思い付くことを並べたてた。が、内面的には、全く空しい思いが逆に彼女をさいなんでいた。
 世尊は、そういうビーデハ夫人を、表情に少しの変化も見せずにじっと見詰めておられた。恐らく内心には、満腔の思いがその胸に込み上げていたであろう。が、脅威的な精神力で、世尊はそれを忍んでおられたのだ。
 マガダ国を揺すぶった悲劇は、今やビンビシャーラ大王、ビーデハ夫人、世尊、の三人を等分に直撃していた。

 パールよ。ビマルラよ。
 このパータリプトラに都を定め、天下に並びない武威を誇り、後世に名を残すに違いないアジャータジャトルが、その若い日、デーバダッタの邪法に惑乱されて、人として為すべからざる逆悪を敢えてしてまった。
 ラージャグリハの都城の内と外に、この事件は量り知れない暗い波紋を広げて行った。取り分け、ラージャグリハに、世尊のサンガの衆が殆ど集まり、揃ってことのなり行きを見守っていた。
 千人を越す比丘・比丘尼が、マガダ国の首都とその周辺に集まっていた。誰もが、この事件に自己を問い自己の生存をかけていた。
 パールよ。ビマルラよ。
 千人を越す比丘・比丘尼のみではない。深く世尊の説法に感じ、身は世俗にありながら道を同じくする居士達も、邪法との対決を憶って事件のなり行きを見詰めていた。
 そして、奇妙なことであったが、時の異教の徒達も、この機にラージャグリハに参集し各々の説を喧伝し合っていた。
 あのニガンタナータプトラも、王家の、特に既にブッダの弟子として出家していたケーマ皇后の子息達に取り入って、その弟子達と共に世尊のサンガに対してあからさまな挑戦を仕掛けて来ていた。
 裸形の、アヒムサー(不害)と無一物を主張するこの一派の挑戦は、一見似て非なる学説を持つ故に、比丘達にとって厄介な問題であった。
 しかし、後になって思う時、それは学問上極めて有意義な試練であったと言えた。
 パールよ。ビマルラよ。
 この事件の始終を通して続いた異教との対決が、かえって世尊のダルマの抜きん出た意義を細かい点まで明確にしてくれたのである。
 その根源の所に、世尊のダルマが真実の智慧の教えであり、他は単なる理知であったことが知られた。
 いわば世尊の教えは、生存全体の学究を開くものであり、他は唯、人の意識でする解釈で終わっている、ということが本当に判然りしたのであった。
 パールよ。ビマルラよ。
 事件の最中、痛ましい出来事や、由々しい出来事が相次いだ。私は、それらの事件に殆ど関係していた。今になって、その当時のことが今のこの私を創って来ていることをかえって尊く思うのである。

暴流2


☆☆☆ 里村専精 ☆☆☆

小説・評論などは以下のURLからダウンロードできます
モダンアルバム
http://homepage.mac.com/satomura1/PhotoAlbum6html

ファイルシャーリング
http://homepage.mac.com/WebObjects/FileSharing.woa/wa/default?user=
satomura1&templatefn=FileSharing1.html&xmlfn=TKDocument.1.xml&
sitefn=RootSite.xml&aff=consumer&cty=US&lang=en

ホームページ
http://homepage.mac.com/satomura1/Personal5.html