佐渡に「横たわらぬ」天の川

−奥の細道300年− 斎藤文一(新潟大学)

付図

芭蕉の『おくのほそ道』紀行(1689年)から早300年になるという.

毎日のようにここ新潟で,私は佐渡を眺めて暮らしている.そしていつだって,「荒波や佐渡に横たふ天の河」という名句がら逃れることはない.

芭蕉(1644−1694)は,あのアイザック・ニュートンやエドムンド・ハレーとまったく同時代の人である.ニュートン(1642−1727),ハレー(1656−1742)のほうは,よほど長く生きたが,みんなあの17世紀後半の,世界史的にずばらしい諸学興隆の時代を鮮やかに生きたのである.

ハレー彗皇の出現は1682年のことで,芭蕉は江戸深川の草庵時代であった.彗星などという「奇妙」なものは,そのころの元禄文化にとって,もちろん何ほどか意義のあるものでもなかったようだが,銀河に対してあれほどの熟考を寄せた芭蕉であってみれば,ハレー彗星が芭蕉の自我形成に,何らかの働きもなかったのかどうか,同じ天空の中なのに,そういう思いもするのである.

さて,銀河が佐渡の上に横たわることは,事実として,ない.ほんとうは銀河は佐渡に「つき立つ」のである.じつは私はそのことを写真に写そうと思っていたが,うまくいかないのだった.別に「真相はこうだ」などと言うつもりではない.
佐渡はほんとうに大きな島で,海のかなたに,ある時は山ひだもはっきりとあらわにしつつ横たわっているのだし,それが銀河の雄大な光の帯といっしょに写っていたら,さぞや見事なものだろうというほどのことであった.

いつか,そういう気持を天体写真家の沼沢茂美氏に話してみたことがある.氏は答えて,「それはむずかしい.季節や時間を選ばねぱならないし,それに夜の佐渡は暗い.銀河だってそんなに明るいものではない.どうやって街の光を避けるか.」とまあそんなぐあいであった.

さて例の句「荒海や」だが,ご存知のように,新潟県三島郡出雲崎町で所感を得た後,直江津の句会で発表されたと伝えられる.この時,同行した門人曽良の日記(『曽良旅日記』)によれぱ,7月4日(新暦8月18日)「出雲崎に着,宿す.夜中,雨強降」とあるから,おそらく二人は銀河も見なかったはずだ.
ついで5,6,7日とも天気悪く,直江津に泊まった7日などは,「夜中,風雨甚」というありさまだった.
だから同句にいう「天の河」は,芭蕉の心眼に映ったそれであった.もっとも,もし晴夜であって,銀河を眼のあたりにしていたとしたら,あの季節,「佐渡に横たふ」とも言えなかったろうが.

また,「横たふ」という表現も,本来,「横たはる」でなければならないものである.

そこで私は,佐渡を見ながらいつも思うのだが,このように大きい景観の中で,すでに「横たわっている」のは,当の佐渡自身ではなかったか!

そしてそこへ,天の川が,作者の心を心として懐きながら,ほとんどあやうく支えられるのをふりほどくようにして,さらに上から倒れるように「横たわろう」とする.それが「横たぷ」の胸裡であると思うのである.

そしてそのように思うには,わけがある.芭蕉には,同句に続けて有名な,市振での作,「一家に遊女もねたり萩と月」がある.このほうはわかりやすいので,萩は遊女で,月は作者芭蕉にほかならない.この句の結構はそっくり「荒海や」の佐渡と銀河にも移しかえてみられるわけである.もっとも,上のような解釈は,あまりに説明的にすぎるとも言えようが.

だがとにかく,芭蕉は,今ようやくにして,この歌枕にも乏しい越後路を踏みぬいで来たところで,このおそろいの二句がひびきあう世界に,旅愁と力業とをないまぜにしながら,ぴったりとおさまるのではなかろうか.
芭蕉が佐渡に寄せる共感はひとしおのものであったろう.それを拾い集めるつもりで,付図のようなものを作ってみた.この大きな島のあちこちの地理と歴史であるわけだが,そこをいくつか気ままに記してみたのである.
案内記というものではもちろんないし,また,ことの軽重などをあれこれ言えるものでもない.記事のいくつかは,説明が欲しいところもあるのだが,ここでは一切とりあげないことにする.遠く佐渡を望む,というようなふうに見てほしいのである.

ただ一言だけ佐渡について言えば,ここは天領の島であったことである.この地の文化的風土には,中央政庁や幕府から排された配流者の系譜を見おとすことはできない.
この図からでも,それがうかがえるわけだし,この島のそちこちに,そういう人々の落魄に心を寄せるものが,ごく親しく息づいているのだ.江戸の一俳諧師である芭蕉が,今,難所を行く決意と孤独の中で,佐渡に見たものも,またそこにあったと思う.


この記事は、「星の手帳」夏号(河出書房新社 刊1989年)から引用しました。
なお引用にあたり文と写真の一部を割愛させていただきました。


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