あとがき(および佐渡について)

佐渡は新潟より海上60km、日本海の荒波を越えること人里の沖合にあり、と言われ るが直線距離では新潟の対岸までは30km、晴れた日には新潟からも海岸部では跳める ことができ、大きなビルの展望室からは特段に目を凝らさないでも、手前に小佐渡の 縁の山並みが、それに重なる茶色がかった大佐渡の山裾が重なっていて、時には山の 樹木の一本一本までも手に触れられるがごとく近くに眺めることができる。
言い換え れば、ある民謡の一節にあるように「棹さしゃ届く」ように感じることができる。も し地続きなら一時間足らずで行ける距離であり、佐渡は考えようによっては近い。そ の点では絶海の孤島では無い。また、某民謡の一節に「佐渡はしじゅくり(49里)波の 上」とあるがこれは実際の距離では無く、佐渡へ行く渡し舟(以前は船でなく、舟で あった筈だ)が始終苦しいという説がある。(なお「佐渡での暮らしが始終苦しい」と いう説、「能登半島から49里の距離だ」という説も有り)。
実際、悪天候下での佐渡 行きの船に乗り合わせるのは今でも気持ちの良いものでは無い。運悪く冬場の悪天候 時や、冬でなくとも時化の時に乗り合わせた船に弱い人は、港を出てしばらくして佐 渡航路のフェリーの窓ガラスに波しぶきが何度もぷつかるのが目に入り、ましてや時 の移るにつれて、それがだんだん激しくなっていくのに気付いてしまった時、それに 加えて、時には上下左右に揺れ回る船の中、水面から三階建と同じくらいの高さにあ る客室に居るにもかかわらず、波立つというよりも泡立っている海水面や水平線が、 何度も目に入りつ消えつつするのを見て、実に肝を冷やす。
そして脂汗は目の周りや 額から滲み出て、冷や汗は体のいたる所から滲み出して流れる。船の上げ下げととも に、本人の上げ下げをする。嘔吐する。まるで何時間もエレベーターに気分の優れぬ まま乗りっ放しのような感じがする。まるでこの世の生き地獄の体を彷彿させる。そ の意味では絶海の孤島である。

今から20年前、昭和40年くらいまでは今言われるところのカーフェリーは無く、あ ると言ってもクレーンで荷物を吊り上げて後部甲板に積み込む形式の小船だった。
乗 船する客が、あまり水面と高さの差のない平らなコンクートの堤防から、4〜5段の小 さな手で取り外しできる階段を恐る恐る踏み締め乗船した船であった。
その当時、佐 渡行きの船の発着場は今の佐渡汽船の対岸にあり、西新潟の万代橋のたもと、礎町の 先の信濃川に面していた。建物の周りは、すぐ横にバスが1〜2台停められる多少の空 間があって,タクシー等も控えることのできる専用の小さな駐車場もあって、運転手 は車の中で反っくり返って客を待っていた。建物自体は今でも地方でよく見掛けるこ とのできる建て替え前の古い駅舎のような姿の建物で、多少広めの入り口を通って開 けっ広げの待ち合い室に入ると佐渡言葉の流れる暗がりの中に、上部の明かり取りの 窓から光が差し込み光の筋となって、人とベンチと煙草の煙が浮かび上がっていた。

堅くて長細い合板製の一枚板を二枚使って、座る板と背もたれにしたベンチと、昔 ながらの座る所と背もたれを細い木で少し間を空けて打ち付けて作ってあった長椅子 と、当時としては新しい、プラスチックとペンキを塗った鉄パイプをボルトとナット で組み合わせたベンチの三種類の物が同じ物同士並んでいて、いずれの背もたれの上 部にも、目にでかでかと佐渡の民宿等の宣伝広告の取り付けであったのを思い出す。

乗船口の脇で売っていた切符は厚いしっかりとした硬券で、ガラス越しに職員が控 えていて、客の行き先の申し出に対して一枚一枚切符を販売していた。そして入り口 の反対にあった改札口の銀色のバーは、動めく人と煙草の煙の影がぼんやりと光る建 物の中で、海へと続く入り口を思わせ静かに光っていた。
その前で、次の船に乗る人 は、まだまだ開きはしないのだが、開いていない改札口の前に一列に、あまり大切で ない自分の荷物の一部を置いて暗黙のうちに順番取りをしていた。人々は出港時間が 近付くとともに、徐々に、既に並んでいる人の列の自分の物のある所に三々五々加わ って行く。そしてそのような人で窮屈に並ぶようになってしまった乗船者の列は、改 札が始まるのを職員に告げられると、開かれた銀色のバーを通り抜けて行くのに急ぎ 始め、改札口で改札係に乗船名簿を渡すのと一緒に、硬券に鋏を入れて貰うやいなや 多くの乗船者は自分の両手に提げた端と端を結び合わせた大きめの風呂敷包みをちょ っと気持ちだけ持ち上げ、たぶんそれがスタートを暗示しているのだろうか、徒競走 (はしりごく)が始まる。小走りで、何故そこで急ぐのかは分からないけれども、すぐ 目の前に停泊している船へと、その10メートルほどの短い距離を、ほとんどどの者が 老いも若きも、今までじっとしていた老人達でさえも急いで走った(!)目の前を老人 達の方が若者よりも宙を飛ぶように駆けて行った、ような気がする。
出港五分前ごろ には金の鍋の底を平らにしたようなドラが船員によって鳴らされ、ドラを打つごとに 船員のばちを持つ右手とドラを持つ左手は大きく輸をかくようにゆっくりと回されて 震えていた。そして、見送る人と旅する人の紙テープが船側と岸壁側から交互に投げ られちょっと弛みながらひらひらしていた。そして旅立つ船は、ちょっとジャズ風に 編曲された明るい『蛍の光』の音楽と女性のアナウンスに送られ、今では余り見受けら れない「はしけ」という大型船発着の際に、岸壁に船を押しつける役割をする小船に 伴われ、人々に見送られ約四時間の船の旅に出港した。(これは、7・8月の観光シーズ ンだけのことだったかもしれない)。

先に時化のことを述べたが、凪の時は全く逆であり、快いことこの上ない。陸地を 遠ざかるにつれ越佐の遠影が眺められ、佐渡ヶ島に近付くにつれ、遥かに遠くにだん だんと風光明媚な景勝も眺められ、それがますます大きくなって目を圧倒する。
また 山脈があると言っても小島の山脈だ、と高をくくっていた人達も、またそれのあるこ とすら知らなかった人達も、時に雪を戴き高く聳える大佐渡・小佐渡の両山脈が近付 くのに驚く。加えて観光で来た者にはまだ見ぬ神社・仏間、聖跡等への期待感が膨ら む。

このような遠いような近いような佐渡ヶ島(さどがしま)は新潟県内の他の上・中・ 下越の三地方の文化・伝統と異なる点が顕著である。少なくとも離れ島にはその中で 一つの文化の流れが育まれていくことは想像できるが、佐渡自体の面積はかなり広く 伊豆半島ほどはあり、またその多種多様な地形の点からも地域差がかなりある。新た な、島自体の文化と地域自体の文化の独自の展開があり得る。
ましてや佐渡の歴史は 新潟市はもとより新潟県内のほとんどの地区より格段に古く、新潟が影も形もなく湿 地や芦原であった奈良・平安時代にも、行政単位が持ち込まれ日本の一部であった(つ まりその頃、新潟は日本ではなかったことになる。土地すらないか、あったとしても アイヌの土地であったかもしれない)。また日本海に浮かぶということから幸いして、 公に認められた帰化人や認められなかったが帰化した外国人(みせはしのひと[粛秦人 ?=遼や古代朝鮮から逃げ延びて来た人々])が多数来島し、進んだ文明をもたらしてい た。または来島したが減んで消えて行った。[相川には古代にそのような人々が居て、 鉱山を開き、毒の水を飲んで全滅したという言い伝えあり]

千年以上のことを言わなくとも、佐渡伝統文化(特に芸能)は廃れそうな感じを持た せながら、随分残っている。しかしながらその中で加速的に消えかかっている文化が 佐渡方言である。
60歳近くの人達と50代から40代の人達、そして30代の人達、20代以 下の若者達では全く佐渡弁の語彙数、その種類が若い世代になるにつれ減ってきてい る。そのうちには、佐渡特有の関西風アクセントを除いて、固有の語彙は消えて行く のだろうか、とも思わせる。
ともあれ、この小集成が佐渡の言葉という伝統文化の理 解の一助になれば、と思っている。

さて、後一つ佐渡の方言について思っていることがある。この本は国中と呼ばれる 地区において良く間かれる語彙をまとめたものであるので、外の地区の方言集がその 専門家・関係者に待たれる。
すなわち羽茂地区・小木地区・相川地区・両津及びその 周辺や水津地区、外海府地区等の最新の細かな調査による集成を希望している。(な お佐渡海府方言集 昭和52年11月30日 国書刊行会 柳田国男編 倉田一郎著、が有る)

末筆ながら語彙の抽出に助言してくださった本間武二先生、坂口昭一先生、豊原久 夫先生、粕谷敏矩先生、計良実先生、畑野町食堂『えのき』に集まる方々、また佐渡方 言辞典の地図使用をご快諾戴いた廣田武雄先生(著者廣田貞吉先生の御子息・元羽茂 高校校長)、そして本書の印刷をご快諾(?!)いただいた考古堂書店社長の柳本さん、お よび社員の皆さま、ありがとうございました。

平成八年神無月

大久保証