詩人物件

詩人物件


 以前,路上詩人(とは言わんのか?)というのがもてはやされた時期がありましたですね。街頭でなにやらわかったようなわからんような詩を色紙に書いて売ってたりして,それを買った少女らが路上で涙を流してたりしたわけですけれども,ああいう光景は今も都会の路上では見られるんでありましょうか。

 まぁ,彼ら詩人は(たぶん)何もマスコミにもてはやされようとしてそういう活動を行っていたわけではないだろうから,今でも変わりなく活動してるのだろうけれども。たぶん。
 涙を流していた少女たちが今でも変わりなく存在するかどうかというのはちょっと疑問でありますが。

 などという,よくわからん前フリはともかく(というか,うちの物件は前フリの方が本編の情報より長いという話もありますが)として,写真の物件であります。

 今の時代の路上詩人はそんな色紙なんていうムダなものは使わず,お金なんかもとらず,対象も限定せず,自分の顔もさらさず,とにかく自分の心情を吐露できればよいと考えるようで,その媒体には電柱が選ばれたようなんでした。紙にすら書かない。直接書き。

「一時一時の大切を 教えて あげて」

 この,なんともわかったようなわからんような,それでいてなんとなくわかったような気になる感じは,路上詩人のそれではないかと。
「大切さ」ではなく「大切」で切ってしまうあたり,さすがであります。よくわからんけれども。
 知っていても自分で教えず,「教えてあげて」というあたりもさすが。よくわからんけれども。

 でも,マスコミにとりあげられたような路上詩人のみなさんのお言葉というのは,もっと直截的でわかりやすいものだったような気もする。
「鏡をみてごらん。ステキな君が映ってる」とか。
「人生は分数だ。割り切れないことがたくさんある」とか。
「右の鼻毛を抜くと,涙が出るのは右の目だ」とか。ちがうか。

 まぁ,一部の人にしか楽しめない,ゴミのような情報を垂れ流しているということからすれば,路上詩人も路上観察者もいっしょかもしれませんが。詩人の人に怒られるか?

 特に,ネット上にこんなムダな写真やら文章やらを蓄積してるとネットの神様(いるのか?)にこんなことを言われてしまうかもしれないなぁ。


「大切」は新潟市・丸山あたり。
「常識」は新潟市・北山あたり。