見てる物件
「オギノ式」で有名な荻野先生は新潟の人で,新潟市中心部にオギノ通りという通りもあるんでした。そしてその通りにある小さな公園には,荻野先生の銅像が座っていたりするんでした。
そしてその公園には小さな池があってメダカが放されているようで,こんなカンバンが立てられているんでした。
「めだかの学校です みんなでかわいがりましょう みるだけにしてね」
ということであります。
「みるだけにしてね」というつけ加えが,ちょっとカワイイところなんでした。
確かに「かわいがりましょう」と言われたら,子どもであればメダカを水から引っぱりだして撫でてあげたりほおずりをしたりするかもしれないでありますね。
それはメダカにとってはちょっと迷惑かもしれないんでした。
あるいは顔に傷があったり背中に絵が描いてあったりする人であれば
「おう。みんなでかわいがってくれだそうじゃあ」
「学校の学生さんを,しかもみんなでかわいがるというのは気がひけるがのう。でもかわいがってくれと頼まれてはしょうがないのう。これも教育の一環かのう」
ということで,彼らなりの「かわいがり」をしてしまうかもしれないんでした。しれなくないか。
「かわいがって」と言われれば,水からひっぱりあげたりはしないとしてもエサをあげたりとかはしそうでありますね。それも過剰になるとメダカにとっては悪影響になるので,「みるだけ」にしてほしいんであろうと思われるんでした。
しかし,見るだけでかわいがるというのは,意外と難しそうであります。「見るだけでかわいがることのできる力」みたいな,一種の超能力にも等しいような気がしてくるでありますね。
まぁ,ただ「ああ。かわいいなぁ」と思いながら眺めていればいいのかもしれませんが。
それは言ってみれば,見ているだけで決して触れられないグラビアアイドルに焦がれる青少年のようなスタンスでありましょうか。ちょっと違うか。
グラビアアイドルは確かに見てあげることによって成長していくこともあるかもしれないけれども,メダカは見るだけでは成長しないだろうし。
しかしまぁ,写真で見てあこがれていたアイドルと実際に知り合いになったらとんでもないアバズレでガッカリした…というように,かわいいメダカを引っぱりだしてほおずりしてみたら魚臭くてガッカリしてしまうかもしれないわけで,「見てるだけ」にしておくのが大切なことも多かったりもするのかもしれないでありますね。
こちらは,ゴミ集積所近くに下げられていたものであります。
インコのような黄色い鳥の模型(?)の下で
「カメラが見ているよ」
と書かれた紙がユラユラしているんでした。
ちょっとシュールな感じがするでありますね。見るものを少し不安にさせるような感じ。
鳥のセレクションはそれでいいのか,よく作ってはあるけれどももうちょっと似せて作れなかったのか,あるいはその見ようによっては少し不気味な形が計算なのかとか思ってしまうところであります。
「カメラで録画中」とかでなく「カメラが見ている」という言い回しも,ふと後ろを振り向くと頭部がカメラになっているカメラ人間がじっとこちらを見ているような場面を想像してしまうところでありますね。想像しないか。
あるいは,実は濁点が消えていて「ガメラが見ている」のかもしれないでありますね。
ゴミを不法投棄したりすると,すぐさまガメラが回転しながら飛んで来て,火炎放射でやっつけられてしまうかもしれないんでした。しれなくないか。
しかしガメラがいるなら不法投棄を取り締まるんではなくてゴミの焼却を手伝ってくれたほうがよさそうな気もするところであります。
てなこといってると火球が飛んでくるかもしれませんが。
「みるだけに」は新潟市中央区・寄居町あたり。
「見ているよ」は新潟市中央区・湊町通1ノ町あたり。