親子物件



「のみくい処 こっこ屋」さんは今日定休日であると,可愛らしいヒヨコが教えてくれているんでした。たいへん微笑ましいカンバンであります。
 丸々と太っているあたり,よほどおいしいものを食べているんでありますね。そしてそのおいしいものはというと,どうやら手に持っている焼き鳥らしいんでした…。

 ヒヨコくんは,知っているんでありましょうか。そのネギの間に刺さっているのが自分の親であったかもしれないことを。そして自分自身の未来であるかもしれないことを。

 まぁ,肉屋さんとか食べ物関係のお店のカンバンでは「共食い」というのはよくあることではあるんでした。中には自分で自分の身体を切り取って食べて「うまい!」と言ってるようなカンバンもあったりするし。

 実際の生物界でも,特に昆虫なんかでは配偶者を食べたり,子が親の腹を食い破って出てきたりということもあるわけで,さして異常なことではないのかもしれないんでした。
 生物としては,生まれて自分で食べることができるようになれば親なんていうのは必要ない,むしろジャマな存在であるかもしれないわけでした。

 でもやはり人間としての感覚からすると,親は大事にしたいわけでありますね。それは生物としてはおかしいことなのか?
 しかしそうすることによって先人の知識知恵を蓄積し活用できるようになったわけで,それが人間という種としての戦略なのかもしれないと思ったりもするわけでした。

 お。なんかマジメっぽいこと言ってるぞ。修正せねば。
 ところで「のみくい処」っていうと蚤を食べるところみたいでありますね。プチプチして意外とおいしいんでありましょうか。
 ゴマ塩のふりかけなどでご飯を食べている最中の方,申し訳ない。


 こちらは
「寿し そうめん 母」
ということなんでした。

「花子 父入院した 連絡待つ 母」
「良男 すべて解決した 心配せずすぐ帰れ 母」
というような,新聞の三行広告みたいであります。

 あれもどの程度効果があるのかどうかわかりませんけれども,ワラにもすがるような思いというのが伝わってきて,切ないものであります。赤瀬川原平翁の「東京路上探検記(新潮社)」中の三行広告を追いかけるくだりには涙したものでありました。

 しかし今回の物件の「寿し そうめん」というのは一体誰に何を伝えたいのかと思ってしまうでありますね。
 ひょっとすると最初の「寿し」というのは「すし」ではなくて「ひさし」という相手の名前だったりするんでありましょうか。そしてこれは「ひさし,今日の夕飯はそうめんだよ」というお母さんからの連絡だったりするのかもしれないでありますね。しれなくないか。だいたいこれは三行広告ではないし。

 よく見ると最後の「母」には「たた」というふりがならしきものがついているんでした。これで「たた」と読むのは初耳でありますけれども,上品な子どもが「たたさま」とか言ってそうではあります。
 ということで,おそらくは「母(たた)」という寿しやらそうめんやらを出すお店のようなんでした。

 それにしてもこういう特徴的なカンバンには何かナゾがあるんではあるまいかと勘ぐってしまうでありますね。やはりアナグラムあたりが妥当でありましょうか。

「すしそうめんたた」の文字の順番を変えると
「たんすためしそう」…「箪笥試しそう」箪笥の品質検査か。
「たんすしめたそう」…「箪笥閉めたそう」箪笥が半開きだと気になるのか。
「ためたそうしんす」…「貯めた送信す」お金が貯まったので連絡するのか。
「すんしためたうそ」…「寸志貯めた嘘」ボーナスを貯金したと嘘をついたのか。
「たんそうすめたし」…「炭素薄めたし」化学系ギャルか。
「うそためしたんす」…「嘘試したんス」詐欺師の研修会か。
「うすめたそんした」…「薄めた損した」利益重視で品質を落としたら客が離れたのか。

 どれもわざわざカンバンに暗号を仕込むような内容ではない気もしますが。
 …しかし我ながらヒマなことを考えているなぁ。


 オマケ。こちらは親子ではありませんけれども
「おじいさんの代からくすりはマツヤ」
とのことなんでした。
 文字だけというのはなんだか昔のローカルテレビのスポットCMみたいでありますけれども,それが逆になかなか斬新であり,インパクトがあるような気がしてくるんでした。

 しかしこの字体からして,本人がすでにおじいさんのようでもあるですね。そのさらにおじいさんの代からということなので,もう江戸時代あたりからやってるんでありましょうか。
 そしてその頃から代々,皮フ病やら「ぢ」やらに悩まされている家系なのであるなぁと思うと,ちょっぴり切なくなってくるんでした。

「焼き親」は新潟市中央区・古町通8あたり。
「そうめん母」は新潟市中央区・女池神明2あたり。
「おぢいさん」は新潟市西蒲区・西中あたり。