その1. 電通映画社のなり たち〜終戦まで

(前編・1999年7月10日)


日本電報通信社写真課
  電通映画社の母体となったのは、1922(大正11)年、日本電報通信社(現・電通)内に設置された、“写真課”ですが、直接的には、2年後の1924 (大正13)年に、松竹とヘンリー小谷氏らの協力を得て新たにつくられた、“電通写真課 活動写真係”が、その前身です。ここでは主に、「電通ニュース」と題された ニュース映画を制作、それらは全国の映画館、公会堂、野外などで公開されていました。

  ここから1935(昭10)年頃までの約10年間について、制作された作品名などの史料は殆どありません。ただこの頃は視覚教育が普及し、教育映画、文化 映画が多く制作され始めた時代であり、電通写真課もまた、主にそれらの制作を行っていたようです。

 
当時の動画界と村田プロダクション
 
  一方、日本のアニメーションは、1917(大正6)年より下川凹天山清太郎幸内純一諸氏の手によって始められ、大正末には、北山映画製作所から独立した山本早苗氏が「姥捨山」を、幸内純一氏のスタジオにいた大藤信郎氏が「馬具田城の盗賊」を、また木村白山氏 や村田安司氏がそれぞれ「赤垣源蔵徳利 の別れ」「ジラフの首はなぜ長い」等の作品を制作するなど、第2世代による活発な活動が始まった頃でした。後に「くもとちゅうりっぷ」を制作し、動画界に多大な影響を与える政岡憲三氏が「難船ス物語・猿ヶ島」で デビューするのは、1930(昭5)年のことです。




この頃(大正末〜昭和10年ころ)のアニメーションは、動画といっても現在のようにセルを基本とした方法 論は未だ高価さのために拡がることが出来ず、人物を切り抜いて背景の上に置くという、切り抜き・切り紙の方式が一般的でした。
  その中でも独自に方式を研究し、戦前数多くの作品を制作したのが、村田安司氏です。横浜シネマ商会でタイトルを書いていた村田氏は、1926(大正15)年同社内に「村 田プロダクション」を設立。前掲の「ジラフの首はなぜ長い」を試作後、1927(昭2)年には「蛸の 骨」を発表。引き続いて「動物オリムピック」「蛙は蛙」な どを制作するのですが、その作品の多さもまた、当時の16ミリによる学校向け視覚教育の普及に負うところが大きかったと言われています。


 

  村田氏は戦後、特撮部の顧問を勤めるなど電通映画社とは少なからぬ関係を持つ人物のひとりなのですが、当時村田氏のプロダクションにいた岡本昌雄氏(十字屋映画部、日本映画社等を経て電通映画社でフリーの演出家として活動)が、電通映画社 の社内報“でんえい”に、当時の制作状況を詳しく書かれているので、抜粋し紹介したいと思います。

  『この頃(昭和6年頃)の漫画映画技術はセルロイド作画ではなかった。村田氏は簡単な自作コンテをもとに、動態分析をやりつつ、直接ケント紙にキュッ キュッと音をたてながら、黒インクで画を描いた。入門早々の私はびっくりした。鉛筆の軽いレイアウトだけで、そのまま撮影できる画が、またたく間に描き 上っていく手先に吸いつけられるようにしてみとれてしまった。(中略)
 画も文字も達者だが、撮影まで一人でやるのにはもっと驚いた。私たち助手(といっても二名)は黒いスペースを 塗り込んだり、同じ画を引き写したりする他、切抜き作業を受け持つ。この切抜きというのは、ケント紙に描かれた画を輪郭すれすれに、余白を残さず、線に切 りこまず早く正確にハサミで切るしごとである。(中略)
 撮影もまた面倒で、背景上に切抜いた画を順繰りに取替えてはコマ撮りをする、数コマ(主に二コマが標準)撮影 すると、その画の上に次の画を若干位置をずらして重ね、下の画をピンセットで抜きとるのだが、その時上の画が少しでも動いたらNGだから神経がすり減るよ うな手作業である。(中略)
 使用カメラはパルボなら上等の部で、原始的なウイリアムソンというような、現在では博物館でも見られないよう なカメラで撮影した。フイルムは前述のように白黒が殆どなのでポジフイルムを使用した。十分以内の無声版一巻を仕上げるのに一年近くかかったと思う』

(でんえい74年3月号『漫画映画の頃』)
「煙突屋ぺロー」と田中喜次氏
 
  また、1930(昭5)年には、やはり電通映画社にゆかりの深い人物の作品が制作・公開されています。京都の若者たちによって設立された童映社の制作にな る「煙突屋ぺロー」です。この映画の原作・脚色・演出を担当したのが、当時 23歳の田中喜次氏。後に電通映画社の映画部部長となる人物です。
 この「煙突屋ぺロー」は、プロキノ(日本プロレタリア映画同盟)の委託により制作され、反響を呼んだと言われ ていますが、反戦の色濃い主題を持った内容であったため、当時検閲により後半がカットされ、また本編自身も所在が分からなくなっていました。しかし 1986(昭61)年、検閲カット版が発見され、当時もう田中氏は亡くなっていましたが、当時の童映社同人のスタッフと、グループタックの手によってカッ ト部分を再制作、常田富士男氏による活弁トーキー映画として復元されたことは、ご存知の方も多いと思います。
 

  田中氏はこの後1933(昭8)年、童映社の仲間である中野孝夫氏・舟木俊一氏らと、JOトー キー(大沢商会が京都太秦に前年設立。後の東宝京都撮影所)内に漫画部を創設。「猿君のカメラマン」 「特急艦隊」「黒猫萬歳」(1933年)「ポンポコ武勇伝」「絵本一九三六 年」(1934年)を制作。

 このJOトーキー漫画部に後の市川崑監督 がいたのは有名な話ですが、1935(昭10)年の田中喜次氏演出によるJOトーキー実写映画「かぐ や姫」の撮影を円谷英二氏が担当し、特撮アニメーション部分の人形を浅野孟府氏、アニメートを政岡憲三氏が 行っており、そしてこの映画のアニメーション部分が、記録上日本で最も初期の立体アニメーション撮影であるという事実は、非常に興味深いものがあります (何といっても、この後田中氏は、持永只仁氏とともに日本最初の本格的人形アニメーション映 画の脚本・演出にも名を連ねるワケですから。そして、この映画の存在を森卓也氏に示唆したの も、他ならぬ持永氏なのです)。
 また、スタッフの浅野孟府氏が、後に持永氏とともにMOMで人形映画を制作することになる浅野竜麿氏の兄弟だということ、円谷英二監督が晩年つくりたいと語っていたのが「かぐや姫」だったとい うこと、そしてその映画化を後年実現したのが、JOトーキー出身の市川崑監督だったことなど、今考えるとさまざまな因縁を感じる映画でもあります。

  田中氏はこの後、偶然にも居合わせた蘆溝橋事件を撮影したことがキッカケとなり同盟通信社でニュース映画・記録映画を制作、1939(昭14)年映画法制 定後には、十字屋文化映画部へ。基本的にはアニメーションから遠ざかるのですが、終戦までの間にかろうじて関連が発見できるとすれば、1942(昭17) 年十字屋映画部制作・渡辺義美氏演出の「子 供の工作」という文化映画の脚本を執筆、この映画のアニメーション部分を大藤信郎氏 が担当した、という記録があるくらいではないかと思います。(但しこの脚本は、当時十字屋映画部にいた岡本昌雄氏の著書によれば岡秀雄氏がクレジットされています)
 この映画を最後として、十字屋映画部は日本映画社へ統合。国家による本格的な映画統制が始まっていたのでし た。

(中編へつづく)

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